「平家継」の版間の差分
編集の要約なし |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
(6人の利用者による、間の6版が非表示) | |||
4行目: | 4行目: | ||
| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = |
||
| 画像説明 = |
| 画像説明 = |
||
| 時代 = [[平安時代]] |
| 時代 = [[平安時代]]後期 |
||
| 生誕 = 不 |
| 生誕 = 不明 |
||
| 死没 = [[元暦]]元年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[1184年]][[8月14日]]) |
| 死没 = [[元暦]]元年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[1184年]][[8月14日]]) |
||
| 改名 = |
| 改名 = |
||
22行目: | 22行目: | ||
}} |
}} |
||
'''平 家継'''︵たいら の いえつぐ︶は、[[平安時代]] |
'''平 家継'''︵たいら の いえつぐ︶は、[[平安時代]]後期の[[武将]]。[[伊勢平氏]]の一族、[[平家貞]]の子。弟に[[平貞能|貞能]]がある。[[伊賀国]][[山田郡 (三重県)|山田郡]]平田を本拠としたことから、'''平田家継'''、'''平田入道'''などとも呼ばれる。
|
||
== 略歴 == |
== 略歴 == |
||
31行目: | 31行目: | ||
[[寿永]]2年︵[[1183年]]︶7月、上洛の機を窺い伊賀に入国した[[源行家]]と合戦を演じた︵﹃[[吉記]]﹄︶。まもなく平家が都落ちするとこれには同行せず、[[一ノ谷の戦い]]を経た元暦元年︵1184年︶7月、同じく平家の家人であった[[平信兼]]、[[藤原忠清|伊藤忠清]]らとともに、伊賀、伊勢の平家方残党を率いて大規模な反乱︵[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]︶を起こす。
|
[[寿永]]2年︵[[1183年]]︶7月、上洛の機を窺い伊賀に入国した[[源行家]]と合戦を演じた︵﹃[[吉記]]﹄︶。まもなく平家が都落ちするとこれには同行せず、[[一ノ谷の戦い]]を経た元暦元年︵1184年︶7月、同じく平家の家人であった[[平信兼]]、[[藤原忠清|伊藤忠清]]らとともに、伊賀、伊勢の平家方残党を率いて大規模な反乱︵[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]︶を起こす。
|
||
そして、伊賀[[守護]]であった[[大内惟義]]の館を襲撃して惟義の家人を多数殺害したのち、近江国[[甲賀郡]]に侵入し郡内 |
そして、伊賀[[守護]]であった[[大内惟義]]の館を襲撃して惟義の家人を多数殺害したのち、近江国[[甲賀郡]]に侵入し郡内大原荘 |
||
において[[佐々木秀義]]率いる源氏軍と交戦した。家継ら叛乱軍は佐々木秀義を討ち取るなど奮戦したものの最終的に鎮圧され、家継も討ち取られて[[獄門|梟首]]された。 |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
38行目: | 39行目: | ||
{{DEFAULTSORT:たいら の いえつく}} |
{{DEFAULTSORT:たいら の いえつく}} |
||
[[Category:伊勢平氏|いえつく]] |
[[Category:伊勢平氏|いえつく]] |
||
[[Category:平安時代の武士]] |
|||
[[Category:平家|臣]] |
[[Category:平家|臣]] |
||
[[Category: |
[[Category:治承・寿永の乱で戦死した人物]] |
||
[[Category:生年不明]] |
[[Category:生年不明]] |
||
[[Category:1184年没]] |
[[Category:1184年没]] |
||
[[Category:刑死した人物]] |
|||
{{Japanese-history-stub}} |
{{Japanese-history-stub}} |
2023年12月24日 (日) 01:16時点における最新版
平家継 | |
---|---|
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 元暦元年7月7日(1184年8月14日) |
別名 | 平田家継、平田入道 |
主君 | 平清盛 |
氏族 | 伊勢平氏 |
父母 | 父:平家貞 |
兄弟 | 家継、貞能、家実 |
略歴[編集]
父、家貞は平家随一の忠臣として知られ、家継もまた伊勢平氏の伝統的勢力圏である伊賀国を本拠として同地の武士を統率する、いわば平家の私的軍事力における中枢的存在として平清盛に仕えた。 治承4年︵1180年︶12月、平家一門による京都還幸後間もなく近江国で源氏勢力による叛乱が起きると、清盛の命を受けた家継は、伊賀、伊勢の武士を率いて直ちにこれの討伐に向かい、反平家の挙兵を企てた手嶋冠者を討ち取ったほか甲賀入道柏木義兼の城を攻め落とすなどした。 寿永2年︵1183年︶7月、上洛の機を窺い伊賀に入国した源行家と合戦を演じた︵﹃吉記﹄︶。まもなく平家が都落ちするとこれには同行せず、一ノ谷の戦いを経た元暦元年︵1184年︶7月、同じく平家の家人であった平信兼、伊藤忠清らとともに、伊賀、伊勢の平家方残党を率いて大規模な反乱︵三日平氏の乱︶を起こす。 そして、伊賀守護であった大内惟義の館を襲撃して惟義の家人を多数殺害したのち、近江国甲賀郡に侵入し郡内大原荘 において佐々木秀義率いる源氏軍と交戦した。家継ら叛乱軍は佐々木秀義を討ち取るなど奮戦したものの最終的に鎮圧され、家継も討ち取られて梟首された。参考文献[編集]
- 川合康 「治承・寿永の内乱と伊勢・伊賀平氏」『鎌倉幕府成立史の研究』収録(2004年、校倉書房)