「後白河天皇」を編集中
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 親王時代 === |
=== 親王時代 === |
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大治2年 |
大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・[[藤原璋子]]の第四皇子として生まれる。[[藤原宗忠|中御門宗忠]]は「后一腹に皇子4人は、昔から希有の例だ」と評した<ref group="注釈">[[宇多天皇]]女御・[[藤原胤子]]、[[三条天皇]]皇后・[[藤原娍子]]以来。</ref>。 |
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11月14日、[[親王宣下]]を受けて﹁雅仁﹂と命名される<ref>﹃[[中右記]]﹄</ref>。2年後に曾祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による[[院政]]が開始された。[[保延]]5年︵[[1139年]]︶12月27日、12歳で[[元服]]して[[品位 (位階)|二品]]に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は[[藤原得子]]を寵愛して、[[永治]]元年︵[[1141年]]︶12月7日、[[崇徳天皇]]に[[譲位]]を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた︵[[近衛天皇]]︶。体仁親王は崇徳帝中宮・[[藤原聖子]]の養子であり﹁[[皇太子]]﹂のはずだったが、譲位の宣命には﹁[[皇太弟]]﹂と記されていた<ref name="gukan">﹃[[愚管抄]]﹄</ref>。天皇が弟では将来の[[院政]]は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
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11月14日、[[親王宣下]]を受けて﹁雅仁﹂と命名される<ref>﹃[[中右記]]﹄</ref>。2年後に曾祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による[[院政]]が開始された。[[保延]]5年︵[[1139年]]︶12月27日、12歳で[[元服]]して[[品位 (位階)|二品]]に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は[[藤原得子]]を寵愛して、[[永治]]元年︵[[1141年]]︶12月7日、[[崇徳天皇]]に[[譲位]]を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた︵[[近衛天皇]]︶。体仁親王は崇徳帝中宮・[[藤原聖子]]の養子であり﹁[[皇太子]]﹂のはずだったが、譲位の宣命には﹁[[皇太弟]]﹂と記されていた<ref name="gukan">﹃[[愚管抄]]﹄</ref>。天皇が弟では将来の[[院政]]は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
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