「後白河天皇」を編集中
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13日、頼朝は後白河院に砂金800両・鷲羽2櫃・御馬100疋を進上、19日と23日には﹁御対面数刻に及ぶ﹂﹁終日御前に候ぜしめたまふ﹂と長時間の会談があった<ref name="azuma">﹃吾妻鏡﹄同日条</ref>。24日、後白河院は花山院兼雅の右近衛大将の地位を取り上げて、頼朝に与える。12月1日の右大将拝賀の儀式は、後白河院が車と装束を調達し、前駆10名の内8名が[[北面武士]]から遣わされて執り行われた。頼朝は3日に権大納言・右大将両官を辞任するが、翌年正月に前右大将家政所吉書始を行い、前右大将の名で下文を発給するなど、右大将任官の事実を活用して自らの権威高揚を図った。
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13日、頼朝は後白河院に砂金800両・鷲羽2櫃・御馬100疋を進上、19日と23日には﹁御対面数刻に及ぶ﹂﹁終日御前に候ぜしめたまふ﹂と長時間の会談があった<ref name="azuma">﹃吾妻鏡﹄同日条</ref>。24日、後白河院は花山院兼雅の右近衛大将の地位を取り上げて、頼朝に与える。12月1日の右大将拝賀の儀式は、後白河院が車と装束を調達し、前駆10名の内8名が[[北面武士]]から遣わされて執り行われた。頼朝は3日に権大納言・右大将両官を辞任するが、翌年正月に前右大将家政所吉書始を行い、前右大将の名で下文を発給するなど、右大将任官の事実を活用して自らの権威高揚を図った。
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14日、頼朝は京都を去り鎌倉に戻る。頼朝の在京はおよそ40日間だったが、後白河院との対面は8回を数え、双方のわだかまりを払拭して朝幕関係に新たな局面を切り開いた。建久2年︵[[1191年]]︶3月22日に17か条の新制が発布されるが、その16条には﹁海陸盗賊放火﹂について﹁'''自今已後、たしかに前右近衛大将源朝臣並びに京畿諸国所部官司等に仰せ、件の輩を搦めまいらしめよ'''﹂<ref>﹃鎌倉遺文﹄523</ref>と記され、頼朝の諸国守護権が公式に認められた。ここに武家が |
14日、頼朝は京都を去り鎌倉に戻る。頼朝の在京はおよそ40日間だったが、後白河院との対面は8回を数え、双方のわだかまりを払拭して朝幕関係に新たな局面を切り開いた。建久2年︵[[1191年]]︶3月22日に17か条の新制が発布されるが、その16条には﹁海陸盗賊放火﹂について﹁'''自今已後、たしかに前右近衛大将源朝臣並びに京畿諸国所部官司等に仰せ、件の輩を搦めまいらしめよ'''﹂<ref>﹃鎌倉遺文﹄523</ref>と記され、頼朝の諸国守護権が公式に認められた。ここに武家が王権を守護する鎌倉時代の政治体制が確立することになる。
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=== 崩御 === |
=== 崩御 === |