「後白河天皇」を編集中
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12月2日、入内定が法住寺殿で行われ、徳子は後白河院の[[猶子]]として入内することになった<ref name="名前なし-20240629113217"/>。白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内した待賢門院の例が用いられたが、﹁かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く﹂<ref name="名前なし_2-20240629113217">﹃玉葉﹄11月28日条</ref>と周囲からは疑問の声が挙がった。九条兼実は﹁法皇の養女では天皇と姉妹の関係になり、忌むべきものだ﹂<ref>﹃玉葉﹄12月14日条</ref>と非難している。徳子入内への反発は大きかったが、この措置で後白河院は徳子を自己の影響下に組み込み、発言力を確保することができた。14日、徳子は法住寺殿に参上して滋子の手により着裳の儀を行い、大内裏へと向かった。
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12月2日、入内定が法住寺殿で行われ、徳子は後白河院の[[猶子]]として入内することになった<ref name="名前なし-20240629113217"/>。白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内した待賢門院の例が用いられたが、﹁かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く﹂<ref name="名前なし_2-20240629113217">﹃玉葉﹄11月28日条</ref>と周囲からは疑問の声が挙がった。九条兼実は﹁法皇の養女では天皇と姉妹の関係になり、忌むべきものだ﹂<ref>﹃玉葉﹄12月14日条</ref>と非難している。徳子入内への反発は大きかったが、この措置で後白河院は徳子を自己の影響下に組み込み、発言力を確保することができた。14日、徳子は法住寺殿に参上して滋子の手により着裳の儀を行い、大内裏へと向かった。
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明けて、承安2年([[1172年]])2月10日、二条天皇の中宮にして六条天皇の養母とされていた[[藤原育子]]を皇后とし、これを受けて徳子が立后されて中宮となった |
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=== 日宋貿易と寺社の統制 === |
=== 日宋貿易と寺社の統制 === |