「徒単皇后 (金海陵王)」の版間の差分
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徒単斜也の娘。徒単氏は[[女真]]貴族の家系で、海陵王の嫡母︵{{仮リンク|哀皇后徒単氏|label=哀皇后|zh|哀皇后 (金德宗)}}︶の他、のちに廃帝[[衛紹王]]や[[哀宗 (金)|哀宗]]の皇后も出している。迪古乃︵のちの海陵王︶の妻となった。
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迪古乃が即位すると、徒単氏は恵妃に封ぜられた。[[天徳 (金)|天徳]]2年︵1150年 |
迪古乃が即位すると、徒単氏は恵妃に封ぜられた。[[天徳 (金)|天徳]]2年︵1150年︶3月27日、次男の[[完顔光英|光英]]︵のちの皇太子︶を産んだ。同年9月、皇后に立てられた。寵愛は受けなかったが、太子の母として重んじられた。
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海陵王が[[南宋]]に親征すると、太子の光英とともに留守を守った。海陵王と太子光英が殺されると、徒単氏は王妃に降格され<ref>夫が海陵郡王に落とされたことにともなう。迪古乃が﹁海陵王﹂と後世に呼ばれるのはこの時の王位による。</ref>、[[北京市|中都]]にうつって海陵王の生母大氏︵[[斡本]]の側室︶の旧宅に住んだ。その後、[[世宗 (金)|世宗]]が徒単氏をあわれんで[[上京会寧府|上京]]の実家に帰し、歳幣︵年金︶2000貫を与えて養わせた。
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海陵王が[[南宋]]に親征すると、太子の光英とともに留守を守った。海陵王と太子光英が殺されると、徒単氏は王妃に降格され<ref>夫が海陵郡王に落とされたことにともなう。迪古乃が﹁海陵王﹂と後世に呼ばれるのはこの時の王位による。</ref>、[[北京市|中都]]にうつって海陵王の生母大氏︵[[斡本]]の側室︶の旧宅に住んだ。その後、[[世宗 (金)|世宗]]が徒単氏をあわれんで[[上京会寧府|上京]]の実家に帰し、歳幣︵年金︶2000貫を与えて養わせた。
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2015年9月28日 (月) 05:54時点における版
徒単皇后︵とぜんこうごう、1120年 - 1170年︶は、金の廃帝海陵王の皇后。
生涯
徒単斜也の娘。徒単氏は女真貴族の家系で、海陵王の嫡母︵哀皇后︶の他、のちに廃帝衛紹王や哀宗の皇后も出している。迪古乃︵のちの海陵王︶の妻となった。 迪古乃が即位すると、徒単氏は恵妃に封ぜられた。天徳2年︵1150年︶3月27日、次男の光英︵のちの皇太子︶を産んだ。同年9月、皇后に立てられた。寵愛は受けなかったが、太子の母として重んじられた。 海陵王が南宋に親征すると、太子の光英とともに留守を守った。海陵王と太子光英が殺されると、徒単氏は王妃に降格され[1]、中都にうつって海陵王の生母大氏︵斡本の側室︶の旧宅に住んだ。その後、世宗が徒単氏をあわれんで上京の実家に帰し、歳幣︵年金︶2000貫を与えて養わせた。子女
- 太子 光英
脚注
- ^ 夫が海陵郡王に落とされたことにともなう。迪古乃が「海陵王」と後世に呼ばれるのはこの時の王位による。
伝記資料
- 『金史』