「成島柳北」を編集中
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[[明治維新]]後、仔細あって[[平民]]籍となるが、[[東本願寺]]法主の[[大谷光瑩]]の[[ヨーロッパ|欧州]]視察随行員として[[1872年]]︵明治5年︶、共に欧米を巡る<ref>このときの紀行文が﹃航西日乗﹄である</ref>。
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[[明治維新]]後、仔細あって[[平民]]籍となるが、[[東本願寺]]法主の[[大谷光瑩]]の[[ヨーロッパ|欧州]]視察随行員として[[1872年]]︵明治5年︶、共に欧米を巡る<ref>このときの紀行文が﹃航西日乗﹄である</ref>。
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欧州では[[岩倉具視]]、[[木戸孝允]]らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、[[文部大臣|文部卿]]の就任を要請されたが受けなかった。また柳北は欧州視察の際に[[共済]]制度を見聞し、帰国後にそれを[[安田善次郎]]に伝え安田と共に日本最初の[[生命保険]]会社「共済五百名社」(現「[[明治安田生命]]」)を設立。(安田は、向島の柳北の家を訪ねたときは出された[[座布団]]を決して敷こうとはしなかった程、柳北を尊敬慕っていた。) |
欧州では[[岩倉具視]]、[[木戸孝允]]らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、[[文部大臣 (日本)|文部卿]]の就任を要請されたが受けなかった。また柳北は欧州視察の際に[[共済]]制度を見聞し、帰国後にそれを[[安田善次郎]]に伝え安田と共に日本最初の[[生命保険]]会社「共済五百名社」(現「[[明治安田生命]]」)を設立。(安田は、向島の柳北の家を訪ねたときは出された[[座布団]]を決して敷こうとはしなかった程、柳北を尊敬慕っていた。) |
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後には[[大槻磐渓]]の紹介によって、[[1874年]]︵明治7年︶に﹃[[朝野新聞]]﹄を創刊、初代社長に就任。[[1875年]]︵明治8年︶には、言論取締法の﹁[[讒謗律]]﹂や﹁[[新聞紙条例]]﹂を批判した{{sfn|すみだゆかりの人々|1985|p=2}}。[[自由民権運動]]の中では、社論は[[大隈重信]]の[[立憲改進党|改進党]]に近く、大隈の設立した[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]の初代の議員<ref>{{Cite book|和書|author=中村尚美|year=2000|title=大隈重信|publisher=吉川弘文館}}175頁</ref> ︵理事に相当<ref>{{Cite book|和書|author=佐藤能丸|year=2005|title=志立の明治人|volume=上|publisher=芙蓉書房出版}}150頁</ref>︶にも就任している。また文芸雑誌﹃[[花月新誌]]﹄を創刊し文芸界でも活躍<ref>﹃復刻版花月新誌﹄︵全8巻、ゆまに書房、1984年︶</ref>。商法会議所︵現商工会議所︶の設立、隅田川河畔の桜植樹等にも尽力、前[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]の[[ユリシーズ・S・グラント|グラント]]の接遇委員も勤めた。[[1884年]]︵明治17年︶11月30日、胸の病のため、48歳︵満47歳︶で死去した。[[本法寺 (墨田区)|本法寺]]︵現[[東京都]][[墨田区]][[横川 (墨田区)|横川]]1丁目︶に葬られたが、[[1909年]]に[[雑司ヶ谷霊園]]へ改葬された{{sfn|すみだゆかりの人々|1985|p=2}}。現在の墓所は[[雑司ヶ谷霊園]]の1種4号6側2番<ref>{{PDFlink|[https://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/pdf/map071.pdf 東京都雑司ヶ谷霊園案内図]}} - 東京都公園協会、2019年12月29日閲覧。</ref>。[[1885年]]︵明治18年︶生前の功績を称え[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]]にある[[長命寺 (墨田区)|長命寺]]に、石碑が建てられた<ref>[http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chomeiji/ 長命寺] -天台宗東京教区</ref> {{sfn|すみだゆかりの人々|1985|p=2}}。
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後には[[大槻磐渓]]の紹介によって、[[1874年]]︵明治7年︶に﹃[[朝野新聞]]﹄を創刊、初代社長に就任。[[1875年]]︵明治8年︶には、言論取締法の﹁[[讒謗律]]﹂や﹁[[新聞紙条例]]﹂を批判した{{sfn|すみだゆかりの人々|1985|p=2}}。[[自由民権運動]]の中では、社論は[[大隈重信]]の[[立憲改進党|改進党]]に近く、大隈の設立した[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]の初代の議員<ref>{{Cite book|和書|author=中村尚美|year=2000|title=大隈重信|publisher=吉川弘文館}}175頁</ref> ︵理事に相当<ref>{{Cite book|和書|author=佐藤能丸|year=2005|title=志立の明治人|volume=上|publisher=芙蓉書房出版}}150頁</ref>︶にも就任している。また文芸雑誌﹃[[花月新誌]]﹄を創刊し文芸界でも活躍<ref>﹃復刻版花月新誌﹄︵全8巻、ゆまに書房、1984年︶</ref>。商法会議所︵現商工会議所︶の設立、隅田川河畔の桜植樹等にも尽力、前[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]の[[ユリシーズ・S・グラント|グラント]]の接遇委員も勤めた。[[1884年]]︵明治17年︶11月30日、胸の病のため、48歳︵満47歳︶で死去した。[[本法寺 (墨田区)|本法寺]]︵現[[東京都]][[墨田区]][[横川 (墨田区)|横川]]1丁目︶に葬られたが、[[1909年]]に[[雑司ヶ谷霊園]]へ改葬された{{sfn|すみだゆかりの人々|1985|p=2}}。現在の墓所は[[雑司ヶ谷霊園]]の1種4号6側2番<ref>{{PDFlink|[https://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/pdf/map071.pdf 東京都雑司ヶ谷霊園案内図]}} - 東京都公園協会、2019年12月29日閲覧。</ref>。[[1885年]]︵明治18年︶生前の功績を称え[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]]にある[[長命寺 (墨田区)|長命寺]]に、石碑が建てられた<ref>[http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chomeiji/ 長命寺] -天台宗東京教区</ref> {{sfn|すみだゆかりの人々|1985|p=2}}。
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