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[[1915年]](大正4年)の『郷土研究』誌に載った[[論文]]で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという[[事件]]があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。 |
[[1915年]](大正4年)の『郷土研究』誌に載った[[論文]]で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという[[事件]]があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。 |
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そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「[[まれびと|マレビト]]」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である<ref>折口信夫『古代研究I』12~13頁</ref>。 |
そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「[[まれびと|マレビト]]」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である<ref>折口信夫『古代研究I』12~13頁</ref>。二人は[[国学]]の先輩方に当たる[[賀茂真淵]]・[[本居宣長]]師弟のように、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。 |
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柳田は、折口より12歳年上で |
柳田は、折口より12歳年上であったが共に[[1945年]](昭和20年)の[[敗戦]]時には、60歳を既に迎えていた。その戦後のことを、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の[[日本人]]は[[桜]]の[[散華|花が散る]]ように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする[[民族]]が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、[[海]]に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣[[藤井春洋]]の[[硫黄島の戦い|硫黄島玉砕]]という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、[[玉音放送|敗戦の詔]]を聞くと四十日間[[喪]]に服し、自分の死ぬまで[[遺影]]前の供養を欠かさなかったという。[[第二次世界大戦|第二次大戦]]で失った戦死者の[[鎮魂]]は大きな課題で、[[戦没者]]が生前に殉じる価値を見出そうとした[[皇国]]などといった概念も[[天皇]]の[[人間宣言]]とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の[[神]]や[[魂]]といった問題意識は共有していて、折口は後にその問題を「民族史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる<ref>折口信夫『古代研究I』14~20頁</ref>。 |
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柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、[[日本文化]]の[[起源]]に遡ろうとした[[帰納]]的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトや[[依り代|ヨリシロ]]という独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした[[演繹]]的な性格を持っていたとされる。 |
柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、[[日本文化]]の[[起源]]に遡ろうとした[[帰納]]的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトや[[依り代|ヨリシロ]]という独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした[[演繹]]的な性格を持っていたとされる。なお『[[遠野物語]]』(現行版は[[角川ソフィア文庫]])に折口の[[跋]]文がある。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |