「折口信夫」を編集中
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[[1916年]]國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。﹃万葉集﹄全二十巻︵4516首︶の口語訳上・中・下を刊行する。[[1917年]]1月私立[[郁文館中学校]]教員となる。2月﹁[[アララギ]]﹂同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。[[1919年]]1月大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。
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[[1916年]]國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。﹃万葉集﹄全二十巻︵4516首︶の口語訳上・中・下を刊行する。[[1917年]]1月私立[[郁文館中学校]]教員となる。2月﹁[[アララギ]]﹂同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。[[1919年]]1月大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。
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[[1921年]]7~9月[[柳田國男]]から[[沖縄県|沖縄]]の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。[[1922年]]1月雑誌﹁白鳥﹂を創刊する。4月國學院大學[[教授]] |
[[1921年]]7~9月[[柳田國男]]から[[沖縄県|沖縄]]の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。[[1922年]]1月雑誌﹁白鳥﹂を創刊する。4月國學院大學[[教授]]となる。
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[[1923年]]6月[[慶應義塾大学文学部]]講師となる。第2回沖縄旅行。[[1924年]]1月亡師三矢重松の﹁源氏物語全講会﹂を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。またこの年には﹁アララギ﹂を去って[[北原白秋]]らと歌誌﹃日光﹄を創刊する。
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[[1923年]]6月[[慶應義塾大学文学部]]講師となる。第2回沖縄旅行。[[1924年]]1月亡師三矢重松の﹁源氏物語全講会﹂を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。またこの年には﹁アララギ﹂を去って[[北原白秋]]らと歌誌﹃日光﹄を創刊する。
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[[1925年]]5月処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。[[1927年]]6月國學院の学生らを伴い[[能登半島]]に採訪旅行し、[[折口春洋|藤井春洋]]の生家を訪う。[[1928年]]4月慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。 |
[[1925年]]5月処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。[[1927年]]6月國學院の学生らを伴い[[能登半島]]に採訪旅行し、[[折口春洋|藤井春洋]]の生家を訪う。[[1928年]]4月慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。 |
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1929年、[[川田順]]、[[斎藤茂吉]]、[[前田夕暮]]、[[松村英一]]、[[北原白秋]]らが設立した[[日本歌人協会]]︵[[東京市]][[本郷区]][[駒込]]︶の会員となる<ref>{{Citation|和書| author=| year=| url =https://dl.ndl.go.jp/pid/1077746/1/211| title=日本歌人協会| volume=| volume-title=文芸年鑑 昭和5年版| publisher= | page=409| quote=| ref =harv}}</ref>。
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[[1932年]][[文学博士]]の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。[[1935年]]11月大阪木津の折口家から[[分家]]する。第3回沖縄旅行。[[1940年]]4月國學院大學学部講座に﹁民俗学﹂を新設する。愛知県三沢の[[花祭 (霜月神楽)|花祭り]]、長野県新野雪祭りを初めて見る。
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[[1932年]][[文学博士]]の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。[[1935年]]11月大阪木津の折口家から[[分家]]する。第3回沖縄旅行。[[1940年]]4月國學院大學学部講座に﹁民俗学﹂を新設する。愛知県三沢の[[花祭 (霜月神楽)|花祭り]]、長野県新野雪祭りを初めて見る。
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