「斎藤茂吉」を編集中
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翌[[1934年]]︵昭和9年︶9月、傷心の茂吉は[[正岡子規]]三十三回忌の歌会で[[松山市|松山]]出身の[[永井ふさ子]]︵1910年生~1993年没︶と出会う。ふさ子は前年にアララギに入会したばかりの美貌の未婚女性であった。茂吉はふさ子の才能を愛で、ふさ子も茂吉に尊崇の念を抱き、程なく二人は師匠と弟子の間柄を越えて深い仲になった。合作の歌が遺っている。﹁︵茂吉︶光放つ神に守られもろともに︵ふさ子︶あはれひとつの息を息づく﹂<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 ﹁あはれひとつの息を息づく﹂︵永井ふさ子︶︻漱石と明治人のことば356︼サライjp]</ref>。さらに茂吉は短歌ばかりでなく、青年のように赤裸々で率直な恋文を贈っている。﹁ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。﹂﹁銀座などでどんなひとにあひましても体に変化は起こらないのに、お手紙の一行でも読んでゐるうちに体に変化が起こつてまゐります。﹂<ref name="tamai">{{Cite journal|和書 |author=玉井崇夫 |title=茂吉の観音さま-歌人 永井ふさ子 |journal=文芸研究 |issn=03895882 |publisher=明治大学文芸研究会 |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>
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翌[[1934年]]︵昭和9年︶9月、傷心の茂吉は[[正岡子規]]三十三回忌の歌会で[[松山市|松山]]出身の[[永井ふさ子]]︵1910年生~1993年没︶と出会う。ふさ子は前年にアララギに入会したばかりの美貌の未婚女性であった。茂吉はふさ子の才能を愛で、ふさ子も茂吉に尊崇の念を抱き、程なく二人は師匠と弟子の間柄を越えて深い仲になった。合作の歌が遺っている。﹁︵茂吉︶光放つ神に守られもろともに︵ふさ子︶あはれひとつの息を息づく﹂<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 ﹁あはれひとつの息を息づく﹂︵永井ふさ子︶︻漱石と明治人のことば356︼サライjp]</ref>。さらに茂吉は短歌ばかりでなく、青年のように赤裸々で率直な恋文を贈っている。﹁ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。﹂﹁銀座などでどんなひとにあひましても体に変化は起こらないのに、お手紙の一行でも読んでゐるうちに体に変化が起こつてまゐります。﹂<ref name="tamai">{{Cite journal|和書 |author=玉井崇夫 |title=茂吉の観音さま-歌人 永井ふさ子 |journal=文芸研究 |issn=03895882 |publisher=明治大学文芸研究会 |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>
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茂吉とふさ子の逢瀬は誰に知られる事も無く続けられていたが、三年後、ふさ子は[[岡山県|岡山]]の医師との縁談話を受け茂吉への想いを断とうとした。しかし翌年[[婚約]]を破棄し、その後生涯独身を貫いた<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html 永遠の少年!?近代を代表する歌人・斎藤茂吉、その妻と美しき愛人 日本気象協会]</ref>。茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念であった<ref name="ehime">{{Cite web |
茂吉とふさ子の逢瀬は誰に知られる事も無く続けられていたが、三年後、ふさ子は[[岡山県|岡山]]の医師との縁談話を受け茂吉への想いを断とうとした。しかし翌年[[婚約]]を破棄し、その後生涯独身を貫いた<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html 永遠の少年!?近代を代表する歌人・斎藤茂吉、その妻と美しき愛人 日本気象協会]</ref>。茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念であった<ref name="ehime">{{Cite web |url=http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2006/0612.htm |title=斎藤茂吉と永井ふさ子の愛 ~四国なるをとめ恋しも~ |publisher=愛媛CATV |accessdate=2019-10-14}}</ref>。
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輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]](昭和20年)から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」<ref name="ehime"/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name="sarai"/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」と語っていた<ref name="tamai"/>。 |
輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]](昭和20年)から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」<ref name="ehime"/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name="sarai"/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」と語っていた<ref name="tamai"/>。 |