「新青年 (日本)」を編集中
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1950年1月8日、正月恒例の木々高太郎邸での新年会が、この年に限って博友社で開催された。出席者は、木々高太郎、[[大坪砂男]]、永瀬三吾、宮野村子、[[岡田鯱彦]]、[[氷川瓏]]、[[本間田麻誉]]。一同揃うと、神楽坂の小料理屋”喜らく”に連れていかれ、高森編集長が、今日は座談会であると切り出した。いわゆる”[[抜打座談会事件]]”で、『新青年』1950年4月号に掲載された。これに本格派の作家たちが激怒・反論し、また本格派作家の牙城とされた雑誌『宝石』編集部が怒り心頭に達した。この事件のわずか3ヶ月後、1950年7月号で『新青年』は終刊となった<ref>{{Cite | 和書 | author = [[山村正夫]] | title = 推理文壇戦後史 | publisher = [[双葉社]] | date = 1973-10-15 | page = 86-95}}</ref><ref>{{Cite | 和書 | author =『新青年』研究会 | title = 新青年読本 昭和グラフィティ | publisher = 作品社 | date= 1988-2-20 | page = 208}}</ref>。 |
1950年1月8日、正月恒例の木々高太郎邸での新年会が、この年に限って博友社で開催された。出席者は、木々高太郎、[[大坪砂男]]、永瀬三吾、宮野村子、[[岡田鯱彦]]、[[氷川瓏]]、[[本間田麻誉]]。一同揃うと、神楽坂の小料理屋”喜らく”に連れていかれ、高森編集長が、今日は座談会であると切り出した。いわゆる”[[抜打座談会事件]]”で、『新青年』1950年4月号に掲載された。これに本格派の作家たちが激怒・反論し、また本格派作家の牙城とされた雑誌『宝石』編集部が怒り心頭に達した。この事件のわずか3ヶ月後、1950年7月号で『新青年』は終刊となった<ref>{{Cite | 和書 | author = [[山村正夫]] | title = 推理文壇戦後史 | publisher = [[双葉社]] | date = 1973-10-15 | page = 86-95}}</ref><ref>{{Cite | 和書 | author =『新青年』研究会 | title = 新青年読本 昭和グラフィティ | publisher = 作品社 | date= 1988-2-20 | page = 208}}</ref>。 |
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なお、終刊号は上述の通り1950年7月号だが、その後に東京鉄道局旅客課編『山の旅案内 コースと賃金』という[[旅行ガイドブック|ガイドブック]]が、名目上『新青年』の7月増刊号という形で発行されており、形式的にはこちらが最終号である。内容的には本誌とは全く無関係なガイドブックで、流通の都合から雑誌増刊号という形式で出されたものと考えられている<ref>{{Cite | 和書 | author = [[新保博久]] | title = ミステリ編集道 | publisher =[[本の雑誌社]] | date = 2015-05-25 | ISBN = 978-4-86011-271-4 | pages = 70-71 }}</ref>。 |
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