「早稲田全線座」の版間の差分
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'''早稲田全線座'''(わせだぜんせんざ、[[1933年]]12月 開業 - [[1960年代]] 閉館廃業)は、かつて存在した日本の[[映画館]]である。[[銀座全線座]]ができるまでは、たんに'''全線座'''という名であった。 |
'''早稲田全線座'''(わせだぜんせんざ、[[1933年]]12月 開業 - [[1960年代]] 閉館廃業)は、かつて存在した日本の[[映画館]]である。[[銀座全線座]]ができるまでは、たんに'''全線座'''という名であった。 |
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== 略歴 |
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== 概要 == |
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[[1933年]](昭和8年)12月<ref>神田川人「東中野のまちづくり」サイト内の岸恒夫の記事「[http://higanaka.sakura.ne.jp/konjak/konjak005.pdf 東中野今昔ものがたり 第五回早稲田通りその2]」の記述を参照。</ref>、[[浅草公園六区]]の[[帝国館]]出身の[[活動弁士]]・樋口旭浪こと[[樋口大祐]]が、[[東京市]][[牛込区]][[馬場下町]](現在の東京都[[新宿区]]馬場下町)に洋画興行を専門とする映画館「全線座」を開業して、樋口の[[個人商店]]・[[全線座]]を創立した<ref name="公式">[[#外部リンク]]欄の公式サイト内の「沿革」「会社概要」「全線座ギャラリー」の各項の記述を参照。二重リンクは省く。</ref>。ちなみに当館が開業するまでの牛込区内の映画館は、牛込館、神楽坂日活館、羽衣館、早稲田キネマの計4館しかなかった<ref>{{Cite web|url=http://homepage1.nifty.com/y_nakahara/tokyo1-7.htm|title=昭和7年の東京市の映画館|publisher=中原行夫の部屋(原資料「[[キネマ旬報]]」)|accessdate=2013-08-20}}</ref>。 |
[[1933年]](昭和8年)12月<ref>神田川人「東中野のまちづくり」サイト内の岸恒夫の記事「[http://higanaka.sakura.ne.jp/konjak/konjak005.pdf 東中野今昔ものがたり 第五回早稲田通りその2]」の記述を参照。</ref>、[[浅草公園六区]]の[[帝国館]]出身の[[活動弁士]]・樋口旭浪こと[[樋口大祐]]が、[[東京市]][[牛込区]][[馬場下町]](現在の東京都[[新宿区]]馬場下町)に洋画興行を専門とする映画館「全線座」を開業して、樋口の[[個人商店]]・[[全線座]]を創立した<ref name="公式">[[#外部リンク]]欄の公式サイト内の「沿革」「会社概要」「全線座ギャラリー」の各項の記述を参照。二重リンクは省く。</ref>。ちなみに当館が開業するまでの牛込区内の映画館は、牛込館、神楽坂日活館、羽衣館、早稲田キネマの計4館しかなかった<ref>{{Cite web|url=http://homepage1.nifty.com/y_nakahara/tokyo1-7.htm|title=昭和7年の東京市の映画館|publisher=中原行夫の部屋(原資料「[[キネマ旬報]]」)|accessdate=2013-08-20}}</ref>。 |
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[[名画座]]として親しまれたが、1960年代には閉鎖、廃業した。 |
[[名画座]]として親しまれたが、1960年代には閉鎖、廃業した。 |
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== ギャラリー == |
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|File:Chaplin City Lights still.jpg|開館まもない[[1934年]](昭和9年)に早稲田全線座でも上映した『[[街の灯]]』<ref name="公式"/>([[1931年]])の[[チャールズ・チャップリン]]と[[ヴァージニア・チェリル]] |
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|File:Gary Cooper-Helen Hayes in A Farewell to Arms.jpg|『街の灯』と同じ1934年に早稲田全線座で上映した『[[戦場よさらば]]』<ref name="公式"/>(監督[[フランク・ボーゼイジ]]、[[1932年]])の[[ゲーリー・クーパー]]と[[ヘレン・ヘイズ]] |
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== 関連事項 == |
== 関連事項 == |
2014年12月28日 (日) 00:03時点における版
種類 | 事業場 |
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市場情報 | 消滅 |
略称 | 全線座 |
本社所在地 |
![]() 〒162-0045 東京市牛込区馬場下町 (現在の東京都新宿区馬場下町) |
設立 | 1933年12月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画・演劇の興行 |
代表者 | 樋口大祐 |
主要株主 | 樋口大祐 |
主要子会社 |
中野映画劇場 目黒キネマ 銀座全線座 |
略歴
●1933年12月 開業 ●1960年代 閉館廃業概要
1933年︵昭和8年︶12月[1]、浅草公園六区の帝国館出身の活動弁士・樋口旭浪こと樋口大祐が、東京市牛込区馬場下町︵現在の東京都新宿区馬場下町︶に洋画興行を専門とする映画館﹁全線座﹂を開業して、樋口の個人商店・全線座を創立した[2]。ちなみに当館が開業するまでの牛込区内の映画館は、牛込館、神楽坂日活館、羽衣館、早稲田キネマの計4館しかなかった[3]。 開業時に発行されたプログラム﹃ZENSEN-ZA No.1﹄には、樋口が﹁樋口旭浪﹂名義で﹁会館御挨拶﹂を述べており、アメリカ合衆国から輸入したRCA製の最新式発声装置を使用し、開館当初からトーキー専門館であることが強調されていた[2]。最初のプログラムには、レオ・マッケリー監督の﹃カンターの闘牛士﹄、極彩色発声映画﹃人魚と海賊﹄、7幕のライヴ﹃ステージ・ショオ﹄、毎日映画社の記録映画﹃海の生命線﹄が上映・上演された[2]。 1945年︵昭和20年︶8月15日、第二次世界大戦が終結、再開業した。 1952年︵昭和27年︶4月2日、全線座が株式会社に改組した[2]。この前年の1951年︵昭和26年︶には高田馬場に早稲田松竹と高田馬場パール座[4]が開業している。 名画座として親しまれたが、1960年代には閉鎖、廃業した。ギャラリー
関連事項
註
外部リンク
- 全線座株式会社 - 公式サイト