村上鬼城
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村上鬼城︵むらかみ きじょう、1865年(慶応元年) - 1938年︵昭和13年︶は日本の俳人、司法書士。本名は村上荘太郎︵しょうたろう︶。
略歴
鳥取県の鳥取藩士、小原平之進の長男として生まれるが、鬼城が11歳の頃、母方の村上家、村上源兵衛の養子となる。 明治17年に東京に出て、明治法律学校︵後の明治大学︶で法学を学びながら法律家を目指す。しかし、耳疾のために断念し、父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる。その傍らで俳句を嗜み、広島の大本営にいた正岡子規に教えを請い、また幾度となく﹃ホトトギス﹄に俳句の投書を行っていた。子規の死後、彼は﹃ホトトギス﹄主宰である高浜虚子から句を見てもらうことになるが、高崎での俳句会で虚子の推輓を受ける。それが契機となって大正2年から﹃ホトトギス﹄の同人活動を始め、大正7年に自身の作品が入選。以後は、代書人の傍ら、俳人、または撰者としても敏腕を振るうことになった。 八人の娘と二人の息子を儲け、子宝に恵まれるものの、生活は絶えず困窮していたという。しかしながら人脈は深く、51歳の時に代書人を解雇された時には、虚子門下の弁護人を立てて復職を遂げている。 昭和13年に死去、享年74歳、龍広寺に墓がある。作風
自身も決して恵まれた境遇ではなかっため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色である。また、本人も耳が不自由だったためか、身体障碍者に対する感情を詠ったものが多く︵但し、今日では差別語として好ましくない表現を用いた句もあることを留意する必要がある︶、阿波野青畝など影響を受けた俳人も多い。また、座右の銘が﹁心眼﹂ならぬ﹁心耳﹂であったことから、今日では﹁心耳の詠み人﹂と呼ばれる。作品
● 冬蜂の死にどころなく歩きけり などが著名である。![]() | この節の加筆が望まれています。 |
句集
- 『鬼城句集』
- 『定本鬼城句集』
外部リンク
参考文献
- 『俳句人名辞典』 常石英明編著 金園社