「松濤明」を編集中
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== 経歴 == |
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[[宮城県]][[仙台市]]に生まれ<ref name=":0">{{Cite web |
[[宮城県]][[仙台市]]に生まれ<ref name=":0">{{Cite web |title=asahi.com:松濤明と芳田美枝子 - トラベル「愛の旅人」 |url=http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200708180141.html |website=www.asahi.com |accessdate=2022-04-10 |publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>、[[鉄道省]]の官吏であった父の都合で幼少のうちに[[東京市]][[麻布区]]に移住、[[港区立南山小学校|市立南山小学校]]から[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]に進む<ref name="kasuga183">春日俊吉、1973年、pp.183.</ref>。中学時代の[[1934年]]8月に教師に連れられて[[燕岳]]・[[槍ヶ岳]]などを登ったことをきっかけに登山に目覚め、翌年には早くも単独で[[白馬岳]]登頂を果たす<ref name="kasuga183"/>。[[1938年]](昭和13年)に[[川上晃良]]と出会うが、川上から無手勝流の登山ではいつ遭難するか分からないと諭され、自らが所属する[[東京登歩渓流会|東京登歩渓流(トボケル)会]]の中心メンバーである[[杉本光作]]を紹介される。杉本から気に入られて彼の勧めで同会に入会して登山の基礎を教わることになった<ref>春日俊吉、1973年、pp.184.</ref>。その後、1941年に[[東京農業大学]]へ進学{{Efn|松濤は最初は上高地に近くて山岳部のある[[松本高等学校 (旧制)|松本高校]]への進学を希望していたが、登山に熱中しすぎたことで学業の不振を招き、2年間の浪人生活を送っていた。しかし、戦争の長期化で浪人生が徴兵される可能性が生じたため、急遽進路変更をしたという<ref>杉本光作、1983年、pp.318-319.</ref>。}}して同大山岳部でも活躍するが、[[1943年]]11月[[太平洋戦争]]による[[学徒出陣]]で一時登山からは離れる<ref name=":0" /><ref>春日俊吉、1973年、pp.185.</ref>。 |
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1946年6月に[[復員]]するが、家庭内の問題(父親が大学進学直前に死去して経済的問題を抱えていた{{Efn|杉本光作によれば、復員した松濤は麻布にあった自宅を売ることにしたが、登歩渓流会の先輩である井上晧司(松濤の遺言に登場する「井上」にあたる人物)に話を纏めて貰ったことで、寝耳に水の形となった親族から非難されていたという<ref>杉本光作、1983年、pp.319.</ref>。}})もあって本格的な登山への復帰は[[1948年]](昭和23年)に入ってからになった。この年だけで17回の山行と28か所の登頂に成功している{{Efn|同年8月に共に谷川岳に登った杉本光作は松濤から「今は占領下だけれど、いつかヒマラヤに登れる日がくる」と述べた上で、山をやるのはこの一年で、大学卒業と就職をしてヒマラヤに行くための準備を始めたい、と言う趣旨の話を打ち明けられたという<ref>杉本光作、1983年、pp.323-324.</ref>。}}<ref>春日俊吉、1973年、pp.185-186.</ref>。そして、[[12月19日]]、槍ヶ岳を[[焼岳]]に向かって[[縦走]]するために新宿駅を出発することになった(なお、12月11日から16日までの山行は今回の事前準備と下見も兼ねており、問題となる[[北鎌尾根]]にも立ち寄っている)<ref>春日俊吉、1973年、pp.177-178.</ref>。 |
1946年6月に[[復員]]するが、家庭内の問題(父親が大学進学直前に死去して経済的問題を抱えていた{{Efn|杉本光作によれば、復員した松濤は麻布にあった自宅を売ることにしたが、登歩渓流会の先輩である井上晧司(松濤の遺言に登場する「井上」にあたる人物)に話を纏めて貰ったことで、寝耳に水の形となった親族から非難されていたという<ref>杉本光作、1983年、pp.319.</ref>。}})もあって本格的な登山への復帰は[[1948年]](昭和23年)に入ってからになった。この年だけで17回の山行と28か所の登頂に成功している{{Efn|同年8月に共に谷川岳に登った杉本光作は松濤から「今は占領下だけれど、いつかヒマラヤに登れる日がくる」と述べた上で、山をやるのはこの一年で、大学卒業と就職をしてヒマラヤに行くための準備を始めたい、と言う趣旨の話を打ち明けられたという<ref>杉本光作、1983年、pp.323-324.</ref>。}}<ref>春日俊吉、1973年、pp.185-186.</ref>。そして、[[12月19日]]、槍ヶ岳を[[焼岳]]に向かって[[縦走]]するために新宿駅を出発することになった(なお、12月11日から16日までの山行は今回の事前準備と下見も兼ねており、問題となる[[北鎌尾根]]にも立ち寄っている)<ref>春日俊吉、1973年、pp.177-178.</ref>。 |