「津島文治」を編集中
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|人名 = 津島 文治 |
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|各国語表記 = つしま ぶんじ |
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|国略称 = {{JPN}} |
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|生年月日 = [[1898年]][[1月20日]] |
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|退任日3 = [[1956年]] |
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'''津島 文治'''︵つしま ぶんじ、[[1898年]]︵[[明治]]31年︶[[1月20日]] – [[1973年]]︵[[昭和]]48年︶[[5月6日]]︶は、[[日本]]の[[実業家]]、[[政治家]]、[[寄生地主|地主]]<ref name="shinnshi349">[{{NDLDC|1461894/349}} ﹃早稲田大学紳士録 昭和15年版﹄]ツ549頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2016年11月18日閲覧。</ref>。[[金木銀行]]頭取。[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]︵3期︶。[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]]︵2期︶。[[青森県知事一覧|青森県知事]]︵公選初代-3代︶。青森県多額納税者<ref name="jinji186">[{{NDLDC|1070514/186}} ﹃人事興信録 第13版下﹄]ツ3頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2016年11月17日閲覧。</ref>。陸奥銀行、[[津軽鉄道]]、津軽酒造各[[取締役]]<ref name="shinnshi349"/ |
'''津島 文治'''︵つしま ぶんじ、[[1898年]]︵[[明治]]31年︶[[1月20日]] – [[1973年]]︵[[昭和]]48年︶[[5月6日]]︶は、[[日本]]の[[実業家]]、[[政治家]]、[[寄生地主|地主]]<ref name="shinnshi349">[{{NDLDC|1461894/349}} ﹃早稲田大学紳士録 昭和15年版﹄]ツ549頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2016年11月18日閲覧。</ref>。[[金木銀行]]頭取。[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]︵3期︶。[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]]︵2期︶。[[青森県知事一覧|青森県知事]]︵公選初代-3代︶。青森県多額納税者<ref name="jinji186">[{{NDLDC|1070514/186}} ﹃人事興信録 第13版下﹄]ツ3頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2016年11月17日閲覧。</ref>。陸奥銀行、[[津軽鉄道]]、津軽酒造各[[取締役]]<ref name="shinnshi349"/>。[[農業]]<ref name="jinji186"/>。
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作家の[[太宰治]](津島修治)は弟、[[俳優]]の[[津島康一]]は長男。元衆議院議員の[[津島雄二]]は義理の甥。 |
作家の[[太宰治]](津島修治)は弟、[[俳優]]の[[津島康一]]は長男。元衆議院議員の[[津島雄二]]は義理の甥。 |
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[[1930年]]11月、弟修治︵太宰︶がカフェの女給[[田部シメ子]]と[[心中]]未遂事件を起こし[[自殺幇助]]容疑で[[鎌倉警察署]]に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作の息子だったことや、管轄の[[横浜地方裁判所|横浜地裁]]の所長が[[黒石市]]出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使して、修治を[[起訴猶予処分]]に持ち込んだ。
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[[1930年]]11月、弟修治︵太宰︶がカフェの女給[[田部シメ子]]と[[心中]]未遂事件を起こし[[自殺幇助]]容疑で[[鎌倉警察署]]に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作の息子だったことや、管轄の[[横浜地方裁判所|横浜地裁]]の所長が[[黒石市]]出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使して、修治を[[起訴猶予処分]]に持ち込んだ。
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[[1937年]]、[[立憲政友会]]から[[第20回衆議院議員総選挙]]に立候補。その若さや家柄から﹁青森県の[[近衛文麿|近衛公]]﹂と呼ばれ、将来を嘱望される。[[4月30日]]に投票がおこなわれ、[[5月1日]]に開票、第2位で当選するも、[[5月4日]]に[[選挙違反]]の容疑で[[五所川原警察署]]に逮捕される。[[留置場]]から衆院議員当選不承諾届と県議辞任届を提出、さらに[[金木銀行]]頭取、西北畜産利用組合長、北津軽郡青年団長、神社の氏子総代などの公職をことごとく辞任。のち、公判にて[[罰金]]2000円および10年間の[[公民権]]停止の判決を言い渡された。以後、[[第二次世界大戦]]中は自邸の書斎にこもる日々が続く |
[[1937年]]、[[立憲政友会]]から[[第20回衆議院議員総選挙]]に立候補。その若さや家柄から﹁青森県の[[近衛文麿|近衛公]]﹂と呼ばれ、将来を嘱望される。[[4月30日]]に投票がおこなわれ、[[5月1日]]に開票、第2位で当選するも、[[5月4日]]に[[選挙違反]]の容疑で[[五所川原警察署]]に逮捕される。[[留置場]]から衆院議員当選不承諾届と県議辞任届を提出、さらに[[金木銀行]]頭取、西北畜産利用組合長、北津軽郡青年団長、神社の氏子総代などの公職をことごとく辞任。のち、公判にて[[罰金]]2000円および10年間の[[公民権]]停止の判決を言い渡された。以後、[[第二次世界大戦]]中は自邸の書斎にこもる日々が続く。
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[[1945年]]7月、疎開先の[[甲府市|甲府]]で空襲にあった修治の一家を自邸に迎える。 |
[[1945年]]7月、疎開先の[[甲府市|甲府]]で空襲にあった修治の一家を自邸に迎える。 |
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[[1946年]]、[[日本進歩党|進歩党]]から戦後初となる[[第22回衆議院議員総選挙]]に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年[[4月10日]]の選挙において、全県一区︵[[大選挙区制]]︶定員7名中6位で当選。[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]となり、公務のため東京に住む。
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[[1946年]]、[[日本進歩党|進歩党]]から戦後初となる[[第22回衆議院議員総選挙]]に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年[[4月10日]]の選挙において、全県一区︵[[大選挙区制]]︶定員7名中6位で当選。[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]となり、公務のため東京に住む。
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[[1947年]]、[[日本国憲法]]施行に伴う国政・地方首長の全面改選を機に[[青森県知事一覧|青森県知事]]選挙に立候補して当選、初代の民選知事となった。 |
[[1947年]]、[[日本国憲法]]施行に伴う国政・地方首長の全面改選を機に[[青森県知事一覧|青森県知事]]選挙に立候補して当選、初代の民選知事となった。以後、3期︵9年余︶を務めた。[[十和田湖]]湖畔の裸婦像︵﹁乙女の像﹂︶は、津島が[[高村光太郎]]に依頼して制作されたものである。[[1948年]]、修治が自殺。
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同年8月の[[昭和天皇の戦後巡幸]]では、青森県内の随行役を務めた<ref>{{Cite book |和書 |author=原武史 |title=昭和天皇御召列車全記録 |publisher=新潮社 |year=2016-09-30 |page=97|isbn=978-4-10-320523-4}}</ref>。県知事は3期︵9年余︶を務めた。[[十和田湖]]湖畔の裸婦像︵﹁乙女の像﹂︶は、津島が[[高村光太郎]]に依頼して制作されたものである。[[1948年]]、修治が自殺。
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県知事退任後の[[1958年]]におこなわれた[[第28回衆議院議員総選挙]]に[[青森県第1区 (中選挙区)|青森1区]]から無所属で立候補して当選、2期を務める。[[1963年]]の[[第30回衆議院議員総選挙]]には次点で落選した。 |
県知事退任後の[[1958年]]におこなわれた[[第28回衆議院議員総選挙]]に[[青森県第1区 (中選挙区)|青森1区]]から無所属で立候補して当選、2期を務める。[[1963年]]の[[第30回衆議院議員総選挙]]には次点で落選した。 |
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[[Category:青森県知事]] |
[[Category:青森県知事]] |
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[[Category:青森県議会議員]] |
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[[Category:青森県の市町村長]] |
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[[Category:有罪判決を受けた日本の政治家]] |
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[[Category:20世紀日本の実業家]] |
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