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父親の清水貞幹は漢学・国学に通じた人物で、1870年(明治3年)に備前国[[和気郡]][[片上町|片上村]](現.[[備前市]])より一家で京都に転居し<ref>『明治女学校の世界: 明治女学校と「女学雑誌」をめぐる人間群像とその思想』藤田美実、青英舎, 1984, p94</ref><ref>『山陽路の女たち, 第 1 巻』[[広島女性史研究会]],ドメス出版, 1985, p34 </ref>、1881年(明治14年)まで[[京都府庁]]勧業課などに勤務<ref>『明治前期女流作品論: 樋口一葉とその前後』和田繁二郎, 桜楓社, 1989, p283</ref>、[[舎密局]]で化学製品の実験製造なども担当した<ref name="muramatsu">『現代女性文学辞典』村松定孝, 東京堂出版, 1990, p102</ref>。妻の留以との間に6人の子をもうけ、豊子はその三女で、姉2人兄2人妹1人がいる<ref name="muramatsu"/>。 |
父親の清水貞幹は漢学・国学に通じた人物で、1870年(明治3年)に備前国[[和気郡]][[片上町|片上村]](現.[[備前市]])より一家で京都に転居し<ref>『明治女学校の世界: 明治女学校と「女学雑誌」をめぐる人間群像とその思想』藤田美実、青英舎, 1984, p94</ref><ref>『山陽路の女たち, 第 1 巻』[[広島女性史研究会]],ドメス出版, 1985, p34 </ref>、1881年(明治14年)まで[[京都府庁]]勧業課などに勤務<ref>『明治前期女流作品論: 樋口一葉とその前後』和田繁二郎, 桜楓社, 1989, p283</ref>、[[舎密局]]で化学製品の実験製造なども担当した<ref name="muramatsu">『現代女性文学辞典』村松定孝, 東京堂出版, 1990, p102</ref>。妻の留以との間に6人の子をもうけ、豊子はその三女で、姉2人兄2人妹1人がいる<ref name="muramatsu"/>。 |
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最初の夫・岡崎晴正は[[岩手県]]出身の免許代言人で、免許代言人制度が誕生した翌年の1877年︵明治10年︶に免許取得<ref name="nagase">﹃近代岡山の女たち﹄永瀨清子, ひろたまさき, 岡山女性史研究会, 三省堂, 1987, p53</ref><ref name="tani"/>。全国各地の代言人は法律の専門知識を活かして事件の解決に取り組むとともに、盛んに政談演説会を開き、日本の自由民権運動・政党運動をリードしたが、岡崎も1880年︵明治13年︶に盛岡市内の芝居小屋で開かれた﹁政談演説討論会﹂で他の免許代言人らとともに﹁国会は是や否や﹂を巡る討論に参加している<ref name="tani">{{Cite journal|和書|author=谷正之 |title=弁護士の誕生とその背景(5) |
最初の夫・岡崎晴正は[[岩手県]]出身の免許代言人で、免許代言人制度が誕生した翌年の1877年(明治10年)に免許取得<ref name="nagase">『近代岡山の女たち』永瀨清子, ひろたまさき, 岡山女性史研究会, 三省堂, 1987, p53</ref><ref name="tani"/>。全国各地の代言人は法律の専門知識を活かして事件の解決に取り組むとともに、盛んに政談演説会を開き、日本の自由民権運動・政党運動をリードしたが、岡崎も1880年(明治13年)に盛岡市内の芝居小屋で開かれた「政談演説討論会」で他の免許代言人らとともに「国会は是や否や」を巡る討論に参加している<ref name="tani">{{Cite journal|和書|author=谷正之 |title=弁護士の誕生とその背景(5)明治時代中期の自由民権裁判と免許代言人 |journal=松山大学論集 |issn=09163298 |publisher=松山大学総合研究所 |year=2010 |month=apr |volume=22 |issue=1 |pages=315-441 |naid=110009577986 |url=http://id.nii.ac.jp/1249/00001537/}}</ref>。のちに奈良の代言人中心の知識人グループ「興和会」(寧良交諭会)の中心的メンバーとなり、1887年(明治20年)には妻の紫琴とともに奈良瓦堂劇場に二千人を集めた演説会に登壇するなど、奈良民権家、[[大同団結運動]]派の人々と活動し、興和会発行の『興和之友』の特別寄稿家でもあった植木枝盛と紫琴が知り合うきっかけとなった1888年(明治21年)の懇親会にも同席していた<ref name="nakayama">{{Cite journal|和書|author=中山和子 |title=清水紫琴研究 |journal=明治大学人文科学研究所紀要 |issn=0543-3894 |publisher=明治大学人文科学研究所 |year=1990 |month=mar |issue=別冊10 |pages=5-36 |naid=120005258279 |url=https://hdl.handle.net/10291/14288}}</ref><ref>『日本語.日本文化研究, 第 2号』「大阪外国語大学日本語学科, 1992.11 , 「清水紫琴の家族観と生活改善思想」岩堀容子/p25~38</ref>。紫琴との間に男児をもうけたが、結婚4年後の1889年(明治22年)に離婚<ref>『日本近代女性文学論: 闇を拓』渡邊澄子、世界思想社, 1998 </ref>。 |
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2人目の夫・古在由直との間に4男1女をもうけるが<ref name="農業と環境53"/>、三男と長女は夭折<ref name="農業と環境53"/>。長男・由正は[[歴史家|東洋史学者]]・[[幣原坦]]の次女・澄江と結婚<ref name="人事興信録9-コ73"/><ref>﹃人事興信録 第9版﹄、シ22頁。</ref>。次男・由重は[[哲学者]]<ref name="農業と環境53"/><ref name="新・未知への群像2">[https://web.archive.org/web/20140714190217/http://www.sci-news.co.jp/contents/kozai/kozai02.htm 新・未知への群像 古在由秀氏2] - [[インターネットアーカイブ]]内のページ</ref>。[[天文学者]]の[[古在由秀]]は由正・澄江夫妻の長男であり<ref name="人事興信録9-コ73"/><ref name="新・未知への群像2"/><ref>[https://web.archive.org/web/20120229050304/http://www.sci-news.co.jp/contents/kozai/kozai01.htm 新・未知への群像 古在由秀氏1] - インターネットアーカイブ内のページ</ref>、[[農学者]]の[[古在豊樹]]は由重の子なので、由秀と豊樹はともに紫琴の孫にあたる。
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2人目の夫・古在由直との間に4男1女をもうけるが<ref name="農業と環境53"/>、三男と長女は夭折<ref name="農業と環境53"/>。長男・由正は[[歴史家|東洋史学者]]・[[幣原坦]]の次女・澄江と結婚<ref name="人事興信録9-コ73"/><ref>﹃人事興信録 第9版﹄、シ22頁。</ref>。次男・由重は[[哲学者]]<ref name="農業と環境53"/><ref name="新・未知への群像2">[https://web.archive.org/web/20140714190217/http://www.sci-news.co.jp/contents/kozai/kozai02.htm 新・未知への群像 古在由秀氏2] - [[インターネットアーカイブ]]内のページ</ref>。[[天文学者]]の[[古在由秀]]は由正・澄江夫妻の長男であり<ref name="人事興信録9-コ73"/><ref name="新・未知への群像2"/><ref>[https://web.archive.org/web/20120229050304/http://www.sci-news.co.jp/contents/kozai/kozai01.htm 新・未知への群像 古在由秀氏1] - インターネットアーカイブ内のページ</ref>、[[農学者]]の[[古在豊樹]]は由重の子なので、由秀と豊樹はともに紫琴の孫にあたる。
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