「渋谷区スポーツセンター」を編集中
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渋谷区内には、[[国立代々木競技場]]や[[東京体育館]]など大型の体育施設はあるものの、渋谷区民が気軽に利用できるものとは言えなかった。<ref name="taiku14-63">日本体育施設協会(1985)63p.</ref>1970年代当時は、区内の[[中学校]]の体育施設の開放、[[世田谷区]]の[[二子玉川]]にある[[多摩川]]河川敷グラウンドの開放などで対応していたものの、区民のスポーツ需要に対して十分とは言えず<ref name="taiku14-63"/>、総合体育館の建設が望まれていた。<ref name="taiku14-63"/>そのような中、[[1978年]]に渋谷区西原にあった[[東京教育大 |
渋谷区内には、[[国立代々木競技場]]や[[東京体育館]]など大型の体育施設はあるものの、渋谷区民が気軽に利用できるものとは言えなかった。<ref name="taiku14-63">日本体育施設協会(1985)63p.</ref>1970年代当時は、区内の[[中学校]]の体育施設の開放、[[世田谷区]]の[[二子玉川]]にある[[多摩川]]河川敷グラウンドの開放などで対応していたものの、区民のスポーツ需要に対して十分とは言えず<ref name="taiku14-63"/>、総合体育館の建設が望まれていた。<ref name="taiku14-63"/>そのような中、[[1978年]]に渋谷区西原にあった[[東京教育大]]学体育学部が[[茨城県]][[つくば市]]に移転する事が決定し、跡地は43000平方メートルと、<ref name="taiku14-63"/>区内に出来た用地としては広大なものであった。区としてはここに総合体育館の建設をすべく、渋谷区に関係する国会議員や都議会議員そして各種団体の代表の協力のもと、1977年に「東京教育大学体育学部移転跡地獲得渋谷区民連盟」が結成された。<ref name="taiku14-63"/>会長は区内在住の[[金メダリスト]][[織田幹雄]]が就任した。<ref name="taiku14-64">日本体育施設協会(1985)64p.</ref>獲得運動には[[渋谷駅]]前でチラシを配ったり、区内全域に署名運動をするなど全区的な運動となった。<ref name="taiku14-64"/>署名は74000人分集まり、<ref name="taiku14-64"/>署名簿を管轄していた当時の[[大蔵省]]に提出し、陳情した。区議会の方でも「教育大跡地獲得特別委員会」が発足し<ref name="taiku14-64"/>、区と区議会、住民による粘り強い交渉が行われた。こうして跡地の6割に当たる24000平方メートルの払下げが[[1982年]]に正式に決定した。<ref name="taiku14-64"/>跡地の獲得が現実的となった[[1981年]]には学識経験者、区議会議員などで構成された「渋谷区民総合体育施設建設委員会」が設置され<ref name="taiku14-64"/>、体育施設についての具体的な答申がなされた。こうした答申をもとに助役を委員長として「区民総合体育施設建設準備委員会」が設置され<ref name="taiku14-64"/>、何度も検討が加えられ、1982年7月に基本計画が決定し、区議会の議決を経て、[[1983年]]に工事は着工され、[[1985年]]に完成した。同年区民から名称が募集され、「渋谷区スポーツセンター」となった。<ref name="jigyo 02-01" />同時に答申の主旨を尊重し、二子玉川区民運動施設、代々木西原公園庭球場、代々木大山公園運動場がスポーツセンターの管轄の施設となった。<ref name="jigyo 02-01" /><ref name="taiku14-67">日本体育施設協会(1985)67p.</ref> |
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== 施設概要 == |
== 施設概要 == |