「源師頼」を編集中
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{{基礎情報 公家 |
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| 氏名 = 源 |
| 氏名 = 源師頼 |
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| 画像 = Minamoto no Moroyori.jpg |
| 画像 = Minamoto no Moroyori.jpg |
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| 画像サイズ = 200px |
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| 画像説明 = 源師頼 |
| 画像説明 = 源師頼『前賢故実』より |
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| 時代 = [[平安時代]]後期 |
| 時代 = [[平安時代]]後期 |
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| 生誕 = [[治暦]]4年([[1068年]]) |
| 生誕 = [[治暦]]4年([[1068年]]) |
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| 戒名 = |
| 戒名 = |
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| 墓所 = |
| 墓所 = |
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| 官位 = [[正二位]] |
| 官位 = [[正二位]]・[[大納言]] |
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| 主君 = [[堀河天皇]]→[[鳥羽天皇]]→[[崇徳天皇]] |
| 主君 = [[堀河天皇]]→[[鳥羽天皇]]→[[崇徳天皇]] |
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| 氏族 = [[村上源氏]] |
| 氏族 = [[村上源氏]] |
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| 父母 = 父:[[源俊房]]、母:[[源実基]] |
| 父母 = 父:[[源俊房]]、母:[[源実基]]娘<br/>養父:''[[橘俊綱]]'' |
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| 兄弟 = [[勝覚]]、証観、[[源方子|方子]]、'''師頼'''、[[源師時|師時]]、[[源師俊|師俊]]、忠時、実運、俊円、師重、宗光、実縁、[[仁寛]]、俊顕、俊智、寛雲、寛真、寛壱、[[藤原宗俊]]室、任子、源師能室<br/>養兄弟:''俊覚''、''[[藤原家光]]''、''[[橘兼長]]''、<br/>藤壺女御、[[源師忠]]正室、''[[源俊頼|俊頼]]'' |
| 兄弟 = [[勝覚]]、証観、[[源方子|方子]]、'''師頼'''、[[源師時|師時]]、[[源師俊|師俊]]、忠時、実運、俊円、師重、宗光、実縁、[[仁寛]]、俊顕、俊智、寛雲、寛真、寛壱、[[藤原宗俊]]室、任子、源師能室<br/>養兄弟:''俊覚''、''[[藤原家光]]''、''[[橘兼長]]''、<br/>藤壺女御、[[源師忠]]正室、''[[源俊頼|俊頼]]'' |
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| 妻 = [[藤原通宗]] |
| 妻 = [[藤原通宗]]娘、[[藤原忠俊]]娘、[[藤原能実]]娘、[[藤原令明]]娘 |
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| 子 = [[源師能|師能]]、[[源師教|師教]]、[[源師光 |
| 子 = [[源師能|師能]]、[[源師教|師教]]、[[源師光#源師光(村上源氏)|師光]]、証遍、[[源師綱|師綱]]、証禅、[[藤原重通 (大納言)|藤原重通]]室、[[藤原光隆]]室、[[源基平]]室 |
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| 特記事項 = |
| 特記事項 = |
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'''源 師頼'''︵みなもと の もろより︶は、[[平安時代]]後期の[[公卿]]・[[歌人]]。[[村上源氏]]、[[左大臣]]・[[源俊房]]の嫡男。[[修理職|修理大夫]]・[[橘俊綱]]の養子<ref>﹃中右記﹄</ref>。[[官位]]は[[正二位]]・[[大納言]]。'''小野宮大納言'''と号す。
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'''源 師頼'''︵みなもと の もろより︶は、[[平安時代]]後期の[[公卿]]・[[歌人]]。[[村上源氏]]、[[左大臣]]・[[源俊房]]の嫡男。[[修理職|修理大夫]]・[[橘俊綱]]の養子<ref>﹃中右記﹄</ref>。[[官位]]は[[正二位]]・[[大納言]]。'''小野宮大納言'''と号す。
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[近衛府|左近衛少将]]・[[弁官]]などを歴任し、[[寛治]]8年︵[[1094年]]︶6月[[蔵人頭]]に任ぜられる。[[承徳]]2年︵[[1098年]]︶[[参議]]となり、[[康和]]元年︵[[1099年]]︶[[従三位]]に叙せられる。
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[[白河天皇|白河朝]]にて[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]後、[[永保]]4年︵[[1084年]]︶[[弾正台|弾正少弼]]に[[任官]]する。
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[[嘉承]]元年の年末︵[[1107年]]1月︶、自分より後に参議になった[[藤原宗忠]]・[[源基綱]]が先に[[中納言|権中納言]]に昇進した<ref>藤原宗忠・[[源基綱]]の権中納言任官時期は嘉承元年12月27日︵1107年1月29日︶。2人の参議任官時期は、藤原宗忠‥[[康和]]元年12月︵[[1100年]]1月︶、源基綱‥承徳2年12月︵[[1099年]]1月︶。︵﹃公卿補任﹄︶</ref>ことをきっかけに、師頼は出仕を取りやめてしまう<ref>藤原宗忠は﹁その後嘉承元年予ならびに基綱中納言に任ずるの後籠居﹂︵﹃中右記﹄大治4年9月7日条︶と記している。なお、藤原宗忠は、のちに師頼が中納言になったことを聞いて、彼が18、9年出仕しない間に18人が師頼を超越して中納言になったと嘲笑する記述も残している︵﹃[[中右記]]﹄大治5年10月5日条︶</ref>。加えて、[[天仁]]元年︵[[1108年]]︶には3年間出仕しなかったことにより[[殿上人|殿上籍]]を削られたが、このことによりかえって師頼は隠遁の意思を強くしてしまい、父・俊房の没後の大治年間に入るまで20年以上も出仕しなかった。また、師頼の籠居は父・俊房を深く悩ませたという。
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[[応徳]]3年︵[[1086年]]︶[[近衛府|左近衛少将]]に遷ると、応徳4年︵[[1087年]]︶従五位上次いで[[正五位|正五位下]]、[[寛治]]2年︵[[1088年]]︶[[従四位|従四位下]]次いで従四位上、寛治3年︵[[1089年]]︶[[正四位|正四位下]]と順調に[[位階]]を進める。しかし、従四位下昇進時に近衛少将を解かれ、1年ほど[[備中国#国司|備中権介]]のみを帯びていた。寛治3年︵1089年︶右中弁に任ぜられると一転して[[弁官]]を務め、寛治8年︵[[1094年]]︶[[蔵人頭]]兼左中弁を経て、[[承徳]]2年︵[[1098年]]︶正月に[[参議]]に任ぜられ[[公卿]]に列するが、左右大弁に[[藤原季仲]]・[[源基綱]]がいたために大弁の昇任はならずに弁官を去り、12月になってから[[兵衛府|右兵衛督]]を兼帯している。
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[[大治 (日本)|大治]]5年︵[[1130年]]︶権中納言、同6年︵[[1131年]]︶従二位権大納言、[[長承]]2年︵[[1133年]]︶[[正二位]]、[[保延]]2年︵[[1136年]]︶[[大納言]]に昇進。[[議政官]]として[[兵衛府|右兵衛督]]・[[近江国#国司|近江権守]]・[[備前国#国司|備前権守]]・[[中宮職|太皇太后宮大夫]]︵ときの太皇太后は[[令子内親王]]︶・[[春宮坊|春宮大夫]]︵体仁親王、後の[[近衛天皇]]<ref>近衛天皇の母[[藤原得子]]︵美福門院︶の母が師頼の妹︵[[源方子]]︶であった縁故による任官であったとされる︵﹃今鏡﹄第7 270段︶</ref>︶などを兼帯した。
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[[大治 (日本)|大治]]年間に入ると再び出仕を始めるが、ことさらに公事を務めず、さらに余りに長く出仕しなかったために、見知る人が非常に少ない状況であったという<ref>﹃中右記﹄大治4年正月22日,9月7日条</ref>。[[鳥羽天皇|鳥羽院政期]]に入ると、大治5年︵[[1130年]]︶参議在任32年を経て権中納言に昇任されるが、藤原宗忠は師頼が中納言になったことを聞いて、18,9年出仕しない間に18人が師頼を超越して中納言になったと嘲笑する日記も残している<ref>﹃中右記﹄大治5年10月5日条</ref><ref>山内、P221.</ref>。
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その後は、大治6年︵[[1131年]]︶[[従二位]]・権大納言、[[長承]]2年︵[[1133年]]︶[[正二位]]、[[保延]]2年︵[[1136年]]︶[[大納言]]と順調に昇進。この間に[[太皇太后]]・[[令子内親王]]の[[中宮職|太皇太后宮大夫]]を務めたほか、[[皇太子]]・体仁親王︵後の[[近衛天皇]]︶の母方の祖母が師頼の妹︵[[源方子]]︶であった縁故により、その[[春宮坊|春宮大夫]]も兼帯している<ref name="ih" />。
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== 人物 == |
== 人物 == |
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和歌に秀で、﹃[[金葉和歌集]]﹄︵5首︶以下の[[勅撰和歌集]]に23首入集する<ref>﹃勅撰作者部類﹄</ref>。[[漢詩|漢詩文]]を広く学び、各種の作文会で漢詩を作ったとされており、現存する作品は﹃中右記部類紙背佚名漢詩集﹄に僅かに残されている。
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学才も高く、[[漢学]]では[[大江匡房]]に師事、[[藤原頼長]]に﹃[[漢書]]﹄を伝授し<ref>保延3年-同4年︵1137年-1138年︶にかけて﹃漢書﹄を講説したという︵﹃台記﹄康治2年︵1143年︶9月29日条︶。﹃古今著聞集﹄や﹃今鏡﹄︵藤波の中,飾り太刀︶にも師頼から頼長への﹃漢書﹄伝授の記載がある。</ref>、頼長自身も日記﹃[[台記]]﹄において師頼を﹁先師﹂と呼んでいる<ref>﹃台記﹄仁平元年2月23日条</ref>。[[有職故実]]にも優れ、[[除目]]作法の儀式書などを編んでいたが現存せず、僅かに﹃[[魚魯愚抄]]﹄などに逸文が見出されるのみとなっている。これらは中世に重んじられた |
学才も高く、[[漢学]]では[[大江匡房]]に師事、[[藤原頼長]]に﹃[[漢書]]﹄を伝授し<ref>保延3年-同4年︵1137年-1138年︶にかけて﹃漢書﹄を講説したという︵﹃台記﹄康治2年︵1143年︶9月29日条︶。﹃古今著聞集﹄や﹃今鏡﹄︵藤波の中,飾り太刀︶にも師頼から頼長への﹃漢書﹄伝授の記載がある。</ref>、頼長自身も日記﹃[[台記]]﹄において師頼を﹁先師﹂と呼んでいる<ref>﹃台記﹄仁平元年2月23日条</ref>。[[有職故実]]にも優れ、[[除目]]作法の儀式書などを編んでいたが現存せず、僅かに﹃[[魚魯愚抄]]﹄などに逸文が見出されるのみとなっている。これらは中世に重んじられた村上源氏の公卿学に連なるものである。
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また、大変な蔵書家であり、師頼が[[大江匡房]]を自邸に迎えた日の夜に自邸が火災に見舞われ、数千冊の書物が灰になったという<ref>『永昌記』[[嘉承]]2年4月2日条。同様の記述は同日条の『[[中右記]]』にもある。</ref>。 |
また、大変な蔵書家であり、師頼が[[大江匡房]]を自邸に迎えた日の夜に自邸が火災に見舞われ、数千冊の書物が灰になったという<ref>『永昌記』[[嘉承]]2年4月2日条。同様の記述は同日条の『[[中右記]]』にもある。</ref>。 |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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和歌の速詠に優れていたとされ、以下の逸話がある<ref |
和歌の速詠に優れていたとされ、以下の逸話がある<ref>『今鏡』村上の源氏,堀河の流れ</ref>。 |
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*師頼が以前から好意を寄せていた女から、[[百首歌]]を詠んだなら結婚しよう、との話があった。女が出した題に応じて、師頼は宵から明け方になる間に、百首を読み終わったが、その間に女は隠れてしまった。女は[[周防内侍]]の縁故であったことから、この話を聞いた人々は周防内侍の過失であると言ったという。
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*師頼が以前から好意を寄せていた女から、[[百首歌]]を詠んだなら結婚しよう、との話があった。女が出した題に応じて、師頼は宵から明け方になる間に、百首を読み終わったが、その間に女は隠れてしまった。女は[[周防内侍]]の縁故であったことから、この話を聞いた人々は周防内侍の過失であると言ったという。
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*師頼が若い頃に﹁採桑老﹂という舞をする夢を見たが、物事に詳しくない人が﹁宰相︵参議︶で久しくいらっしゃる﹂と興ざめな[[夢合わせ]]をしてしまった。師頼がこれに怒ったこともあり、夢合わせした者は早くに亡くなってしまい、師頼も長く宰相の地位に留まることになってしまったという。
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*師頼が若い頃に﹁採桑老﹂という舞をする夢を見たが、物事に詳しくない人が﹁宰相︵参議︶で久しくいらっしゃる﹂と興ざめな[[夢合わせ]]をしてしまった。師頼がこれに怒ったこともあり、夢合わせした者は早くに亡くなってしまい、師頼も長く宰相の地位に留まることになってしまったという。
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== 官歴 == |
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注記のないものは『[[公卿補任]]』による。 |
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*日付不詳:[[従五位|従五位下]] |
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*[[永保]]4年([[1084年]]) 正月:[[弾正台|弾正少弼]] |
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*[[応徳]]3年([[1086年]]) 11月20日:[[近衛府|左近衛少将]]?<ref name="knb">『近衛府補任』</ref> |
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*応徳4年([[1087年]]) 正月5日:従五位上(少将労)<ref name="knb" />。11月10日:兼[[備中国#国司|備中権介]]<ref name="knb" />。11月18日:[[正五位|正五位下]]([[大嘗会]]主基[[国司]])<ref name="knb" /> |
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*[[寛治]]2年︵[[1088年]]︶ 正月5日‥[[従四位|従四位下]]︵[[陽明門院]]去年[[年爵|御給]]︶、止少将。正月19日‥従四位上︵[[行幸]][[白河天皇|太上天皇]]御所日賞︶
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*寛治3年([[1089年]]) 正月:[[正四位|正四位下]](無品[[媞子内親王]]去朔旦未給)。正月28日:[[弁官|右中弁]]、介如元 |
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*寛治8年([[1094年]]) 6月13日:左中弁、[[蔵人頭]] |
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*[[嘉保]]2年([[1095年]]) 正月:兼備中介 |
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*[[承徳]]2年([[1098年]]) 正月7日:[[参議]]、去左中弁。12月:兼[[兵衛府|右兵衛督]] |
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*[[康和]]元年([[1099年]]) 正月5日:[[従三位]]。正月:兼[[近江国#国司|近江権守]] |
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*康和3年([[1101年]]) 正月5日:[[正三位]](父卿譲、額賞) |
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*康和6年([[1104年]]) 正月28日:兼備中権守 |
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*[[天永]]4年([[1113年]]) 10月29日:止右兵衛督(依不仕也) |
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*[[保安 (元号)|保安]]5年([[1124年]]) 正月22日:兼[[備前国#国司|備前権守]] |
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*[[大治 (日本)|大治]]4年([[1129年]]) 正月24日:兼[[備後国#国司|備後権守]]。2月17日:改任兼備前権守 |
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*大治5年([[1130年]]) 10月5日:[[中納言|権中納言]] |
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*時期不詳:中納言 |
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*大治6年([[1131年]]) 3月19日:[[従二位]](行幸稲荷祇園行事賞)。12月22日:[[大納言|権大納言]] |
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*[[長承]]2年([[1133年]]) 正月5日:[[正二位]](先年行幸平野大原野行事賞) |
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*長承3年([[1134年]]) 2月22日:兼[[皇后宮職|皇后宮大夫]]([[皇后]]・[[令子内親王]])。3月19日:改兼太皇太后宮大夫([[太皇太后]]・令子内親王) |
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*[[保延]]2年([[1136年]]) 12月9日:[[大納言]] |
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*保延5年︵[[1139年]]︶7月16日‥[[近衛天皇|躰仁親王]]勅別当。8月3日‥辞大夫。8月17日‥[[春宮坊|春宮大夫]]︵[[春宮]]・[[近衛天皇|躰仁親王]]︶、勅授帯剣。日付不詳‥[[出家]]。12月4日‥[[薨去]]︵依喉所労也︶
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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『[[尊卑分脈]]』による。 |
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*父:[[源俊房]] |
*父:[[源俊房]] |
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*母:[[源実基]]女 |
*母:[[源実基]]女 |
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**男子:[[源師教]](?-?) |
**男子:[[源師教]](?-?) |
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*妻:[[藤原能実]]女 |
*妻:[[藤原能実]]女 |
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**男子:[[ |
**男子:[[源師光]](?-?) |
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*妻:[[藤原令明]]女 |
*妻:[[藤原令明]]女 |
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**男子:証遍 |
**男子:証遍 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist |
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== 出典 == |
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*山内益次郎『今鏡の周辺』和泉書房、1993年 ISBN 4-87088-572-7 |
*山内益次郎『今鏡の周辺』和泉書房、1993年 ISBN 4-87088-572-7 |
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*竹鼻績『今鏡 (下)』 |
*竹鼻績『今鏡 (下)』講談社学術文庫、1984年 |
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*『公卿補任 第一篇』[[吉川弘文館]]、1982年 |
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*『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年 |
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*市川久編『近衛府補任 第二』[[続群書類従完成会]]、1992年 |
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