「漫才」を編集中
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* しゃべくり漫才 |
* しゃべくり漫才 |
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** 掛け合い漫才 |
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**: 掛け合いでしゃべるもの<ref>『上方漫才入門』p.46「掛け合い漫才」</ref> |
**: 掛け合いでしゃべるもの<ref>『上方漫才入門』p.46「掛け合い漫才」</ref>。 |
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** ぼやき漫才 |
** ぼやき漫才 |
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**: 1人がしゃべり続け、相方は相槌を打つだけのもの。本質的には[[漫談]]である。[[都家文雄]]によって創始され、弟子の[[人生幸朗・生恵幸子]]や[[東文章・こま代]]に受け継がれた。このほか、[[西川のりお・上方よしお]]などが該当する<ref>﹃上方漫才入門﹄p.47﹁ぼやき漫才﹂</ref>。
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**: 1人がしゃべり続け、相方は相槌を打つだけのもの。本質的には[[漫談]]である。[[都家文雄]]によって創始され、弟子の[[人生幸朗・生恵幸子]]や[[東文章・こま代]]に受け継がれた。このほか、[[西川のりお・上方よしお]]などが該当する<ref>﹃上方漫才入門﹄p.47﹁ぼやき漫才﹂</ref>。
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1930年︵[[昭和]]5年︶、吉本興行部︵[[吉本興業]]の前身︶所属のコンビ﹁[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]﹂が、従来和装であった萬歳師・万才師と異なり、[[背広]]を身に着け、長らく萬歳・万才の音曲の﹁つなぎ﹂扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的な﹁しゃべくり漫才﹂スタイルを創始し、絶大な人気を博した<ref name="aiba24">﹃上方漫才入門﹄pp.24-25﹁漫才の時代﹂</ref>。しゃべくり漫才はこれまでの萬歳・万才よりも多く笑いを企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くのコンビが結成されたほか、[[ラジオ放送]]のコンテンツとして全国的な認知を得て、多くのスター漫才師が生まれた。発表の場の増加と広がりに合わせ、[[秋田實]]など、専業の漫才作家が活動を開始するようになった。やがて漫才は主に﹁しゃべくり漫才﹂を指す語となり、これまでの漫才は少数派となり、﹁音曲漫才﹂という[[レトロニム]]と化した。
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1930年︵[[昭和]]5年︶、吉本興行部︵[[吉本興業]]の前身︶所属のコンビ﹁[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]﹂が、従来和装であった萬歳師・万才師と異なり、[[背広]]を身に着け、長らく萬歳・万才の音曲の﹁つなぎ﹂扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的な﹁しゃべくり漫才﹂スタイルを創始し、絶大な人気を博した<ref name="aiba24">﹃上方漫才入門﹄pp.24-25﹁漫才の時代﹂</ref>。しゃべくり漫才はこれまでの萬歳・万才よりも多く笑いを企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くのコンビが結成されたほか、[[ラジオ放送]]のコンテンツとして全国的な認知を得て、多くのスター漫才師が生まれた。発表の場の増加と広がりに合わせ、[[秋田實]]など、専業の漫才作家が活動を開始するようになった。やがて漫才は主に﹁しゃべくり漫才﹂を指す語となり、これまでの漫才は少数派となり、﹁音曲漫才﹂という[[レトロニム]]と化した。
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同時期の東京では、[[柳家金語楼]]がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。両者はのちに[[リーガル千太・万吉]]を名乗り、1935年︵昭和10年︶には他の約80組のコンビとともに﹁[[漫才協会#歴史|帝都漫才組合]]﹂を設立し |
同時期の東京では、[[柳家金語楼]]がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。両者はのちに[[リーガル千太・万吉]]を名乗り、1935年(昭和10年)には他の約80組のコンビとともに「[[漫才協会#歴史|帝都漫才組合]]」を設立した。 |
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[[第二次世界大戦]]終結後、漫才師の何人かが戦死・病死・消息不明に見舞われたり、劇場やプロダクションの運営が停止したりする(例として、吉本は映画館運営会社へ一時転身した)など、演芸のための人的・物的リソースが不足する中、[[千歳家歳男・松鶴家団之助|松鶴家団之助]]による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手の研究会「MZ研進会」発足など、漫才の復興に向けた動きがなされた。やがて演芸プロダクションや劇場運営会社が次々と再興し、多くの芸人がいずれかに所属するようになる。 |
[[第二次世界大戦]]終結後、漫才師の何人かが戦死・病死・消息不明に見舞われたり、劇場やプロダクションの運営が停止したりする(例として、吉本は映画館運営会社へ一時転身した)など、演芸のための人的・物的リソースが不足する中、[[千歳家歳男・松鶴家団之助|松鶴家団之助]]による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手の研究会「MZ研進会」発足など、漫才の復興に向けた動きがなされた。やがて演芸プロダクションや劇場運営会社が次々と再興し、多くの芸人がいずれかに所属するようになる。 |