「澤田正二郎」を編集中
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大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、[[浅草]]の公園劇場を本拠とした。また、翌年の[[関東大震災]]まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、﹃[[勧進帳]]﹄の3字目を変えたのは、[[市川團十郎]]家への遠慮である。
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大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、[[浅草]]の公園劇場を本拠とした。また、翌年の[[関東大震災]]まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、﹃[[勧進帳]]﹄の3字目を変えたのは、[[市川團十郎]]家への遠慮である。
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翌大正12年も、﹃大菩薩峠﹄全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に大部屋 |
翌大正12年も、﹃大菩薩峠﹄全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に大部屋に居た俳優が検挙されたことを契機に警官らと乱闘になり多数が検挙。参考人のつもりで出頭した澤田も検挙された。この乱闘は、車座で寿司を食べていた俳優の姿を巡回に来た刑事が花札賭博をしているものと誤認したことが契機だった<ref>注‥象潟事件とは﹃昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年﹄本編p156-157 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。自伝﹃苦闘の跡﹄には冤罪とある。そして拘留中に[[関東大震災]]が発生。
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劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に[[文芸協会]]が主催を引き受け新聞各社が後援し、[[日比谷公園]]野外音楽堂で、﹃勧進帳﹄などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った﹃[[テント|天幕]]劇場﹄で公演するなど、機敏に動いた。
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劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に[[文芸協会]]が主催を引き受け新聞各社が後援し、[[日比谷公園]]野外音楽堂で、﹃勧進帳﹄などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った﹃[[テント|天幕]]劇場﹄で公演するなど、機敏に動いた。
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