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{{Portal 文学}}


''' ''' [[1875]][[1211]] - [[1915]][[228]][[]][[]][[]][[]]''' '''[[]]{{R|nakamura_5}}[[]]<ref name="nakamura_1">[[]]1972: 1</ref>

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== 生涯 ==

== 生涯 ==

[[高崎県]]高崎(現在の[[群馬県]][[高崎市]])で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる<ref name="nakamura_5">中村喜和(1972: 5)</ref>。両親はともに[[正教会]]の信者であり、自身も早くから信者となった{{R|nakamura_5}}。1882年に[[主教]]の[[ニコライ・カサートキン]]が高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに[[前橋市]]まで出迎えに行き、大きくなったら[[駿河台]]の正教女子神学校に入学するよう勧められたという<ref name="nakamura_6">中村喜和(1972: 6)</ref>。1883年によかが[[結核]]のため亡くなったが、[[キリスト教徒]]である事を理由に先祖代々の墓所への[[埋葬]]を拒否されている{{R|nakamura_6}}。

[[高崎県]]高崎(現在の[[群馬県]][[高崎市]])で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる<ref name="nakamura_5">中村喜和(1972: 5)</ref>。両親はともに[[正教会]]の信者であり、自身も早くから信者となった{{R|nakamura_5}}。[[1882年]]に[[主教]]の[[ニコライ・カサートキン]]が高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに[[前橋市]]まで出迎えに行き、大きくなったら[[駿河台]]の正教女子神学校に入学するよう勧められたという<ref name="nakamura_6">中村喜和(1972: 6)</ref>。[[1883年]]によかが[[結核]]のため亡くなったが、[[キリスト教徒]]である事を理由に先祖代々の墓所への[[埋葬]]を拒否されている{{R|nakamura_6}}。



よかの[[遺言]]に従い、1885年秋に単身上京して全寮制の女子神学校に入学した{{R|nakamura_6}}。わがままな性格のため長続きしないだろうという親戚の見方を覆し<ref name="nakamura_7">中村喜和(1972: 7)</ref>、非常に優秀な成績で1892年7月に同校を卒業している<ref name="nakamura_8">中村喜和(1972: 8)</ref>。卒業後は[[教理]]の[[教員|教師]]として神学校に残り、同年に尚絅社から創刊された『裏錦』へ投稿を始めた<ref name="nakamura_10">中村喜和(1972: 10)</ref>。夏葉はこれを非常な楽しみとし、創刊号から1896年の46号までほぼ毎号投稿を続けていた<ref name="sugiyama_5">杉山(1994: 5)</ref>。教訓的な傾向の強い文章が多かった<ref name="nakamura_11">中村喜和(1972: 11)</ref>が、若さもあって思想的な厚みや鋭さには欠けていたという<ref name="nakamura_13">中村喜和(1972: 13)</ref>。

よかの[[遺言]]に従い、[[1885年]]秋に単身上京して全寮制の女子神学校に入学した{{R|nakamura_6}}。わがままな性格のため長続きしないだろうという親戚の見方を覆し<ref name="nakamura_7">中村喜和(1972: 7)</ref>、非常に優秀な成績で[[1892年]]7月に同校を卒業している<ref name="nakamura_8">中村喜和(1972: 8)</ref>。卒業後は[[教理]]の[[教員|教師]]として神学校に残り、同年に尚絅社から創刊された『裏錦』へ投稿を始めた<ref name="nakamura_10">中村喜和(1972: 10)</ref>。夏葉はこれを非常な楽しみとし、創刊号から[[1896年]]の46号までほぼ毎号投稿を続けていた<ref name="sugiyama_5">杉山(1994: 5)</ref>。教訓的な傾向の強い文章が多かった<ref name="nakamura_11">中村喜和(1972: 11)</ref>が、若さもあって思想的な厚みや鋭さには欠けていたという<ref name="nakamura_13">中村喜和(1972: 13)</ref>。



また、この頃から『[[経国美談]]』など様々な文学作品を読み、[[内田不知庵]]が訳した『[[罪と罰]]』や[[二葉亭四迷]]訳の『[[アーシャ (ツルゲーネフ)|片恋]]』がきっかけで[[ロシア文学]]を研究したいと考えるようになった<ref name="nakamura_16">中村喜和(1972: 16)</ref>。このため1896年にニコライから[[ロシア語]]の参考書を与えられ、[[瀬沼恪三郎]]の協力でロシア語を習得した<ref name="nakamura_18">中村喜和(1972: 18)</ref>。これに先立つ1894年には[[ニコライ堂]]での演奏がきっかけで[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事し、他の教師とともに毎週[[ピアノ]]を習うようになった<ref name="nakamura_47">中村喜和(1972: 47)</ref>。[[1897年]]12月に恪三郎と結婚し、これを機に教師を辞めたとみられている{{R|nakamura_18}}。結婚後は裏錦への投稿も止めたが、恪三郎やロシア人からロシア語を学び続けて理解が上達していった<ref name="nakamura_27">中村喜和(1972: 27)</ref>。

また、この頃から『[[経国美談]]』など様々な文学作品を読み、[[内田不知庵]]が訳した『[[罪と罰]]』や[[二葉亭四迷]]訳の『[[アーシャ (ツルゲーネフ)|片恋]]』がきっかけで[[ロシア文学]]を研究したいと考えるようになった<ref name="nakamura_16">中村喜和(1972: 16)</ref>。このため1896年にニコライから[[ロシア語]]の参考書を与えられ、[[瀬沼恪三郎]]の協力でロシア語を習得した<ref name="nakamura_18">中村喜和(1972: 18)</ref>。これに先立つ[[1894年]]には[[ニコライ堂]]での演奏がきっかけで[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事し、他の教師とともに毎週[[ピアノ]]を習うようになった<ref name="nakamura_47">中村喜和(1972: 47)</ref>。[[1897年]]12月に恪三郎と結婚し、これを機に教師を辞めたとみられている{{R|nakamura_18}}。結婚後は裏錦への投稿も止めたが、恪三郎や[[ロシア人]]からロシア語を学び続けて理解が上達していった<ref name="nakamura_27">中村喜和(1972: 27)</ref>。




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1911年には再びロシアに旅立ち、1月に生まれたばかりの三女・文代子だけを連れて4月29日に[[品川駅]]を発ち、敦賀・ウラジオストクを経由して[[シベリア鉄道]]で5月18日に[[サンクトペテルブルク]]に到着した<ref name="nakamura_65">中村喜和(1972: 65)</ref>。なお、文代子は[[東京帝国大学]]に留学中だった10歳年下のロシア人学生アンドレーエフとの不倫関係により生まれた子とも言われている{{R|nakamura_2003_XX}}。サンクトペテルブルクではネフスキー通りの店で販売員として働いたが、[[リウマチ]]が悪化したため8月で仕事を辞め、その後は日本語の教師を務めた{{R|nakamura_65}}。[[フィンランド]]の別荘に滞在中の[[レオニド・アンドレーエフ]]を訪問して会えなかった話などを読売新聞に寄稿した後、帰国している<ref name="nakamura_66">中村喜和(1972: 66)</ref>。

[[1911年]]には再びロシアに旅立ち、1月に生まれたばかりの三女・文代子だけを連れて[[4月29日]]に[[品川駅]]を発ち、敦賀・ウラジオストクを経由して[[シベリア鉄道]]で[[5月18日]]に[[サンクトペテルブルク]]に到着した<ref name="nakamura_65">中村喜和(1972: 65)</ref>。なお、文代子は[[東京帝国大学]]に留学中だった10歳年下のロシア人学生アンドレーエフとの不倫関係により生まれた子とも言われている{{R|nakamura_2003_XX}}。サンクトペテルブルクではネフスキー通りの店で販売員として働いたが、[[リウマチ]]が悪化したため8月で仕事を辞め、その後は日本語の教師を務めた{{R|nakamura_65}}。[[フィンランド]]の別荘に滞在中の[[レオニド・アンドレーエフ]]を訪問して会えなかった話などを読売新聞に寄稿した後、帰国している<ref name="nakamura_66">中村喜和(1972: 66)</ref>。



1911年の年末から1912年の初頭に創刊間もない『[[青鞜]]』の賛助員となり、『[[ワーニャ伯父さん|叔父ワーニャ]]』を翻訳して同誌に連載した<ref name="nakamura_70">中村喜和(1972: 70)</ref>。1913年には『[[桜の園]]』が青鞜に掲載され、同年4月には叔父ワーニャとともに1冊の本として[[新潮社]]から出版されている<ref name="nakamura_74">中村喜和(1972: 74)</ref>。[[スタニスワフ・プシビシェフスキ|プシビシェフスキ]]の『紫玉』を翻訳中の1915年2月に四男・葉一を出産したが、直後に[[急性肺炎]]にかかり、2月28日に40歳で逝去した。葬儀はニコライ堂で営まれ、遺体は[[雑司ヶ谷霊園]]に葬られた<ref name="nakamura_78">中村喜和(1972: 78)</ref>。


1911[[1912]][[]][[|]]<ref name="nakamura_70">1972: 70</ref>[[1913]][[]]41[[]]<ref name="nakamura_74">1972: 74</ref>[[|]][[1915]]2[[]][[228]]40[[]]<ref name="nakamura_78">1972: 78</ref>


== 翻訳 ==

== 翻訳 ==

[[明治]]から[[大正]]初期の日本の翻訳者が[[英語]]版をもとに重訳していたのに対し、[[ロシア語]]の原文から直接翻訳できたのが夏葉の優位だった点で<ref name="nakamura_56">中村喜和(1972: 56)</ref>、さらに[[尾崎紅葉]]の指導を受けたことで正確な日本語の文章にのびのびとした趣きもあった、と言われる<ref name="nakamura_57">中村喜和(1972: 57)</ref>。一方で[[文語体|擬古文調]]が払拭されきっていない、などの指摘もある{{R|nakamura_57}}。

[[明治]]から[[大正]]初期の日本の翻訳者が[[英語]]版をもとに重訳していたのに対し、[[ロシア語]]の原文から直接翻訳できたのが夏葉の優位だった点で<ref name="nakamura_56">中村喜和(1972: 56)</ref>、さらに[[尾崎紅葉]]の指導を受けたことで正確な日本語の文章にのびのびとした趣きもあった、と言われる<ref name="nakamura_57">中村喜和(1972: 57)</ref>。一方で[[文語体|擬古文調]]が払拭されきっていない、などの指摘もある{{R|nakamura_57}}。



複数の文だった原文を日本語で一つの文章にまとめるという特徴がしばしば見られ、明治期の翻訳一般にみられる音調を重視した美文調の文章になっている<ref name="nakamura_58">中村喜和(1972: 58)</ref>。この点は紅葉の校閲や指導が強く影響しており<ref name="ichikawa_27">市川(1994: 27)</ref>、当時の日本語として違和感を覚えても原文に忠実な翻訳を志向した[[二葉亭四迷]]の文章などと対照的とされる{{R|nakamura_58}}。また、音調を整えるために数個の語句だけでなく数行から数十行もの文章が翻訳によって脱落する事があり、欠点として指摘されている<ref name="nakamura_59">中村喜和(1972: 59)</ref>。

複数の[[]]だった原文を日本語で一つの文章にまとめるという特徴がしばしば見られ、明治期の翻訳一般にみられる音調を重視した美文調の文章になっている<ref name="nakamura_58">中村喜和(1972: 58)</ref>。この点は紅葉の校閲や指導が強く影響しており<ref name="ichikawa_27">市川(1994: 27)</ref>、当時の日本語として違和感を覚えても原文に忠実な翻訳を志向した[[二葉亭四迷]]の文章などと対照的とされる{{R|nakamura_58}}。また、音調を整えるために数個の語句だけでなく数行から数十行もの文章が翻訳によって脱落する事があり、欠点として指摘されている<ref name="nakamura_59">中村喜和(1972: 59)</ref>。



夏葉は男性関係が奔放でニコライを悩ませ、その翻訳も恪三郎がしたものではないかという見方がある<ref name="nakamura_2003_XX">中村健之介 (2003: ページ不明)</ref>。恪三郎は『アンナ・カレーニナ』の翻訳についてトルストイと書簡を交わしているが、そこには「われわれが訳している」と書いてあるが夏葉の名前は出されていない{{R|nakamura_34}}。一方、個々の夏葉訳のチェーホフの[[戯曲]]を詳細に分析すると初歩的なロシア語文法・語法の誤りが稀に見られ、ロシア語教則を出版した恪三郎の翻訳では絶対に有り得ないミスをしている事から、恪三郎が翻訳を全面的に行なったというのは非現実的だという意見もある<ref>[http://www.kazan-glocal.com/translation.html KAZANグローカル研究所 チエホフと夏葉]</ref>。

夏葉は男性関係が奔放でニコライを悩ませ、その翻訳も恪三郎がしたものではないかという見方がある<ref name="nakamura_2003_XX">中村健之介 (2003: ページ不明)</ref>。恪三郎は『アンナ・カレーニナ』の翻訳についてトルストイと書簡を交わしているが、そこには「われわれが訳している」と書いてあるが夏葉の名前は出されていない{{R|nakamura_34}}。一方、個々の夏葉訳のチェーホフの[[戯曲]]を詳細に分析すると初歩的なロシア語文法・語法の誤りが稀に見られ、ロシア語教則を出版した恪三郎の翻訳では絶対に有り得ないミスをしている事から、恪三郎が翻訳を全面的に行なったというのは非現実的だという意見もある<ref>[http://www.kazan-glocal.com/translation.html KAZANグローカル研究所 チエホフと夏葉]</ref>。



=== チェーホフ作品の翻訳 ===

=== チェーホフ作品の翻訳 ===

[[ニコライ神学校]]には[[ロシア]]から定期的に文学などの書籍が寄贈され、夏葉はそれらを翻訳していた<ref name="nakamura_46">中村喜和(1972: 46)</ref>。[[アントン・チェーホフ]]が自ら改稿・校閲した『チェーホフ全集』もこの中にあり、最初に翻訳した『月と人』と『写真帖』はこれに典拠している{{R|nakamura_46}}。夏葉に[[ピアノ]]を教えた[[ラファエル・フォン・ケーベル]]はチェーホフを愛読していたため、ケーベルからチェーホフの存在を教えられたという説もある<ref name="nakamura_47">中村喜和(1972: 47)</ref>が、夏葉自身は翻訳を始めてからケーベルが読んでいる事を知った、と記している<ref name="nakamura_49">中村喜和(1972: 49)</ref>。[[1908年]]に[[獅子吼書房]]から刊行された夏葉訳による『露国文豪 チエホフ傑作選』は、『[[日本及日本人]]』や『[[女子文壇]]』で翻訳を高く評価され、冒頭に配した『[[六号室]]』は[[島崎藤村]]らから特に好評を博した<ref name="nakamura_52">中村喜和(1972: 52)</ref>。「最初の日本語訳がロシア語の原文から直接行われた事は、ドストエフスキーやトルストイに比べてチェーホフにとって幸運であり、この短篇集は日露文学関係史において重要な存在となった」とロシアでは評価されている<ref name="ichikawa_23">市川(1994: 23)</ref>。

[[ニコライ神学校]]には[[ロシア]]から定期的に文学などの書籍が寄贈され、夏葉はそれらを翻訳していた<ref name="nakamura_46">中村喜和(1972: 46)</ref>。[[アントン・チェーホフ]]が自ら改稿・校閲した『チェーホフ全集』もこの中にあり、最初に翻訳した『月と人』と『写真帖』はこれに典拠している{{R|nakamura_46}}。夏葉に[[ピアノ]]を教えた[[ラファエル・フォン・ケーベル]]はチェーホフを愛読していたため、ケーベルからチェーホフの存在を教えられたという説もある<ref name="nakamura_47">中村喜和(1972: 47)</ref>が、夏葉自身は翻訳を始めてからケーベルが読んでいる事を知った、と記している<ref name="nakamura_49">中村喜和(1972: 49)</ref>。[[1908年]]に[[獅子吼書房]]から刊行された夏葉訳による『露国文豪 チエホフ傑作選』は、『[[日本及日本人]]』や『[[女子文壇]]』で[[翻訳]]を高く評価され、冒頭に配した『[[六号室]]』は[[島崎藤村]]らから特に好評を博した<ref name="nakamura_52">中村喜和(1972: 52)</ref>。「最初の日本語訳がロシア語の原文から直接行われた事は、ドストエフスキーやトルストイに比べてチェーホフにとって幸運であり、この短篇集は日露文学関係史において重要な存在となった」とロシアでは評価されている<ref name="ichikawa_23">市川(1994: 23)</ref>。



短編小説を中心に翻訳したのは、本人の好みだけではなく、4男3女を育てて夫の来客にも対応するという時間的な制約の影響が指摘されている<ref name="nakamura_77">中村喜和(1972: 77)</ref>。[[サンクトペテルブルク]]滞在中に[[オペラ]]や[[芝居]]を観劇し、日本でも[[自由劇場]]が設立されるなどの近代演劇への関心が高まっていた事を受け、2度目のロシアからの帰国後は戯曲作品の翻訳に注力した<ref name="nakamura_72">中村喜和(1972: 72)</ref>。夏葉は、紅葉の意見と同じようにチェーホフをユーモア作家と考えており、『カシタンカ』や『六号室』を好きな作品に挙げている{{R|nakamura_52}}。

短編小説を中心に翻訳したのは、本人の好みだけではなく、4男3女を育てて夫の来客にも対応するという時間的な制約の影響が指摘されている<ref name="nakamura_77">中村喜和(1972: 77)</ref>。[[サンクトペテルブルク]]滞在中に[[オペラ]]や[[芝居]]を観劇し、日本でも[[自由劇場]]が設立されるなどの近代演劇への関心が高まっていた事を受け、2度目のロシアからの帰国後は[[戯曲]]作品の翻訳に注力した<ref name="nakamura_72">中村喜和(1972: 72)</ref>。夏葉は、紅葉の意見と同じようにチェーホフをユーモア作家と考えており、『カシタンカ』や『六号室』を好きな作品に挙げている{{R|nakamura_52}}。



== 主な翻訳作品 ==

== 主な翻訳作品 ==




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  • 瀬沼夏葉: タイトル、Some statements、サイトリンク、その他、説明: ja

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