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'''田村 成義'''︵たむら なりよし、[[嘉永]]4年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]︵[[1851年]][[3月11日]]︶ - [[大正]]9年︵[[1920年]]︶[[11月8日]]︶は、[[歌舞伎]]劇場の興行主で、'''田村将軍'''と異名を取った人物。
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江戸で医師の福井家に生まれ、牢屋敷鍵番 |
江戸日本橋元大工町で医師の福井家に生まれ、牢屋敷同心鍵番を勤めた田村金太郎の養子となる。幼名は鋳之助。改名の時期は不明。 |
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1869年か1870年に東京府の囚人取調係を辞職。 |
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芝居の小道具の刀の請負い、製茶業者などの職を経たのち法律を学び、明治10年代言人(弁護士)免許を得る。 |
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その後、[[新富座]]の[[守田勘弥]]の法律顧問になった。 |
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1883年7月自由党に入党。関与の程度・活動期間は不明。この時期横浜でも代言人事務所を開く。
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[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]と親交が深く、1886年菊五郎が[[明治座|千歳座]]に移った際、経営に関わり、﹁四千両小判梅葉﹂などの作品の制作にも関係する。
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1889年11月[[歌舞伎座]]開業以降、[[福地桜痴]]・[[千葉勝五郎]]らとともに、興行主任などの名義で経営に参加した。 |
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1895年、弁護士の登録を取り消す。これ以降は劇場の興行制作・経営に専念した。 |
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1908年以降[[市村座]]の経営権も得て、1914年、歌舞伎座が松竹の経営に移ると、田村は市村座に専念することになった。 |
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市村座では若手の[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]や[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]らを抜擢して育て、人気を博した。[[帝国劇場]]や歌舞伎座を向こうに回し、いわゆる「菊吉時代」「二長町時代」を築いた。 |
市村座では若手の[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]や[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]らを抜擢して育て、人気を博した。[[帝国劇場]]や歌舞伎座を向こうに回し、いわゆる「菊吉時代」「二長町時代」を築いた。 |
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小唄を得意とし、小唄田村流の祖田村てると親交があった。 |
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2008年9月23日 (火) 19:26時点における版
田村 成義︵たむら なりよし、嘉永4年2月9日︵1851年3月11日︶ - 大正9年︵1920年︶11月8日︶は、歌舞伎劇場の興行主で、田村将軍と異名を取った人物。
江戸日本橋元大工町で医師の福井家に生まれ、牢屋敷同心鍵番を勤めた田村金太郎の養子となる。幼名は鋳之助。改名の時期は不明。
1869年か1870年に東京府の囚人取調係を辞職。
芝居の小道具の刀の請負い、製茶業者などの職を経たのち法律を学び、明治10年代言人︵弁護士︶免許を得る。
その後、新富座の守田勘弥の法律顧問になった。
1883年7月自由党に入党。関与の程度・活動期間は不明。この時期横浜でも代言人事務所を開く。
五代目尾上菊五郎と親交が深く、1886年菊五郎が千歳座に移った際、経営に関わり、﹁四千両小判梅葉﹂などの作品の制作にも関係する。
1889年11月歌舞伎座開業以降、福地桜痴・千葉勝五郎らとともに、興行主任などの名義で経営に参加した。
1895年、弁護士の登録を取り消す。これ以降は劇場の興行制作・経営に専念した。
1908年以降市村座の経営権も得て、1914年、歌舞伎座が松竹の経営に移ると、田村は市村座に専念することになった。
市村座では若手の六代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛門らを抜擢して育て、人気を博した。帝国劇場や歌舞伎座を向こうに回し、いわゆる﹁菊吉時代﹂﹁二長町時代﹂を築いた。
小唄を得意とし、小唄田村流の祖田村てると親交があった。
腎臓炎のため1920年逝去。
市村座は田村の死後、子の田村寿二郎︵成義を大田村、寿二郎を小田村と呼んだ︶が経営に当たったが、吉右衛門、七代目坂東三津五郎らが相次いで脱退したため、次第に衰退していった︵1928年市村座は松竹経営になったが1932年に焼失し、再建されなかった︶。