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﹁'''磯節'''﹂︵いそぶし︶は[[茨城県]]・三浜地方︵[[ひたちなか市]]の磯崎・平磯・那珂湊にかけての海岸地域。[[大洗町|大洗]]を含む︶に伝わる[[民謡]]<ref name="ookubo">{{Cite web |
﹁'''磯節'''﹂︵いそぶし︶は[[茨城県]]・三浜地方︵[[ひたちなか市]]の磯崎・平磯・那珂湊にかけての海岸地域。[[大洗町|大洗]]を含む︶に伝わる[[民謡]]<ref name="ookubo">{{Cite web|和書|author=大久保 景明 |url=https://article.oarai-onca.org/posts/2846576 |title=磯節発祥の碑﹃大洗歴史漫歩﹄ |publisher=ONCA 大洗自然と文化アーカイブズ |date= |accessdate=2021-05-19}}</ref>。[[日本三大一覧#音楽|日本三大民謡]]の一つともいわれる<ref name="bunkajoho">{{Cite web|和書|author= |url=http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/dento/topic/%E2%84%9612-%E3%80%8C%E7%A3%AF%E7%AF%80%E3%82%92%E6%AC%A1%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%80%8D%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E3%81%B2%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%8B%E5%B8%82%E3%80%8C%E7%A3%AF |title=いばらきの伝統文化-特集 №12﹁磯節を次世代に﹂茨城県ひたちなか市﹁磯節道場﹂にインタビュー |publisher=茨城県県民生活環境部生活文化課 |date= |accessdate=2021-05-19}}</ref><ref name="ookubo"/>。
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== 解説 == |
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発祥の頃は定かではないが、[[安政]]年間︵[[1855年]]-[[1860年]]︶の頃には漁師たちによって歌われていたと伝えられる<ref name="kyoikusya">{{Cite web |
発祥の頃は定かではないが、元となった唄は[[安政]]年間︵[[1855年]]-[[1860年]]︶の頃には漁師たちによって歌われていたと伝えられる<ref name="kyoikusya">{{Cite web|和書|author= |url=https://www.kyogei.co.jp/shirabe/kyoudo/text10.html |title=郷土の音楽‥茨城 |publisher=教育芸術社 |date= |accessdate=2021-05-19}}</ref><ref name="mitokoumon">{{Cite web|和書|author= |url=https://www.mitokoumon.com/festival/isobushi.html |title=磯節全国大会 |publisher=一般社団法人 水戸観光コンベンション協会 |date= |accessdate=2021-05-19}}</ref>。櫓を漕ぐ際の労働歌として歌われたものが原唄であり、江戸に入る際にどこから着た船が分かるよう水戸の漁師が船べりを叩いて歌ったとも伝わる<ref name="tokyodo">{{Cite book|和書|author1=仲井 幸二郎|author2=丸山 忍|author3=三隈 治雄|title=日本民謡辞典 |publisher=東京堂出版 |year=1972 |pages=45-46 }}</ref>。この漁師たちによって歌い継がれた[[労働歌|舟唄]]は<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|author= |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A3%AF%E7%AF%80-31053 |title=磯節とは (小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)) |publisher=コトバンク |date= |accessdate=2021-05-19}}</ref>、[[明治]]時代初期に渡辺竹楽坊によって歌詞や囃子言葉が補われたほか、那珂湊の芸妓屋・藪木万吉の娘・金太による[[三味線]]での伴奏︵および編曲︶により洗練されたものとなった<ref name="kyoikusya"/><ref name="tokyodo"/>。渡辺が磯節を[[座敷歌]]として[[芸妓]]に教えたことなどにより、明治中期以降には[[遊郭]]を通じて全国へと広まっていった<ref>{{Cite journal |和書|author= |authorlink= |title=茨城県大洗町における海浜観光地域の継続的発展要因 |journal=地域研究年報 |volume=38 |issue= |publisher=筑波大学人文地理学・地誌学研究会 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005741407 |date=2016 |pages=1-29 |naid=120005741407 |ref= }}. p.4</ref>。磯節は各地の遊郭で歌われるようになり、1902年︵明治35年︶の﹃東京風俗史﹄では東京で﹁山で赤いのが躑躅に椿、咲いてからまる藤の花﹂の詞で歌われたと伝えている<ref>{{Cite journal |和書|author=飯島 一彦|title=向い山に咲く花 -日本の歌謡と中国の少数民族彝族の歌謡とにおける花の表現- |journal=マテシス・ウニウェルサリス |volume=19 |issue=2 |url=http://id.nii.ac.jp/1140/00001328/ |publisher=獨協大学国際教養学部言語文化学科 |date=2018-03 |pages=21-33 |naid= |ref= }}, p.30</ref>。磯節が変化したものに磯節に賑やかな囃子をつけ早い調子で唄う﹁'''新磯節'''﹂がある。磯節・新磯節ともに広く唄われたが、明治中頃、東京で流行したときにはこの新磯節が多く唄われた<ref name="tokyodo_s">{{Cite book|和書|author1=仲井 幸二郎|author2=丸山 忍|author3=三隈 治雄|title=日本民謡辞典 |publisher=東京堂出版 |year=1972 |pages=185-186 }}</ref>。
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[[大正]]の頃にはこの歌を好んでいた[[常陸山谷右エ門]]が巡業先に[[関根安中]]を連れていき、[[水戸市|水戸]]をはじめに各地で歌わせたためにこの歌は全国的に知られるようになった<ref name="kyoikusya"/><ref name="mitokoumon"/>。[[水戸]]では磯節に踊りの振りが作られた<ref name="ookubo"/>。関根安中が歌う磯節は有名となり、1922年(大正11年)にはレコード『安中磯ぶし』として発売されている<ref>{{Cite journal |和書|author= |authorlink= |title=茨城県大洗町における海浜観光地域の継続的発展要因 |journal=地域研究年報 |volume=38 |issue= |publisher=筑波大学人文地理学・地誌学研究会 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005741407 |date=2016 |pages=1-29 |naid=120005741407 |ref= }}. p.5</ref>。 |
[[大正]]の頃にはこの歌を好んでいた[[常陸山谷右エ門]]が巡業先に[[関根安中]]を連れていき、[[水戸市|水戸]]をはじめに各地で歌わせたためにこの歌は全国的に知られるようになった<ref name="kyoikusya"/><ref name="mitokoumon"/>。[[水戸]]では磯節に踊りの振りが作られた<ref name="ookubo"/>。関根安中が歌う磯節は有名となり、1922年(大正11年)にはレコード『安中磯ぶし』として発売されている<ref>{{Cite journal |和書|author= |authorlink= |title=茨城県大洗町における海浜観光地域の継続的発展要因 |journal=地域研究年報 |volume=38 |issue= |publisher=筑波大学人文地理学・地誌学研究会 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005741407 |date=2016 |pages=1-29 |naid=120005741407 |ref= }}. p.5</ref>。 |
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[[大洗海岸]]近辺には「磯節発祥の地」の碑が据えられている。この碑は1964年(昭和39年)に建てられた<ref name="ookubo"/>。磯節の原唄からの詞「磯で名所は大洗さまよ、松が見えますほのぼのと」と[[西條八十]]の書で刻まれている<ref name="ookubo"/>。大洗さまは「[[大洗磯前神社]]」を指す。大洗では古くは漁の目印とするために松が大切にされていた。しかしながら明治から昭和にかけ、その多くが枯れている<ref name="ookubo"/>。この「磯で名所は大洗さまよ、松が見えますほのぼのと」については三浜地域の南端である大洗で変化したもので、かつては「磯で曲り松、湊で女松、中の祝町男まつ」であった<ref name="kotobank"/>。この湊は、現在の[[ひたちなか市]]・那珂湊地域を指す。 |
[[大洗海岸]]近辺には「磯節発祥の地」の碑が据えられている。この碑は1964年(昭和39年)に建てられた<ref name="ookubo"/>。磯節の原唄からの詞「磯で名所は大洗さまよ、松が見えますほのぼのと」と[[西條八十]]の書で刻まれている<ref name="ookubo"/>。大洗さまは「[[大洗磯前神社]]」を指す。大洗では古くは漁の目印とするために松が大切にされていた。しかしながら明治から昭和にかけ、その多くが枯れている<ref name="ookubo"/>。この「磯で名所は大洗さまよ、松が見えますほのぼのと」については三浜地域の南端である大洗で変化したもので、かつては「磯で曲り松、湊で女松、中の祝町男まつ」であった<ref name="kotobank"/>。この湊は、現在の[[ひたちなか市]]・那珂湊地域を指す。 |
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2018年7月24日には、[[大洗町]]によって﹁磯節﹂は最初の大洗遺産として定められた<ref>{{Cite web |
2018年7月24日には、[[大洗町]]によって﹁磯節﹂は最初の大洗遺産として定められた<ref>{{Cite web|和書|author= |url=http://www.town.oarai.lg.jp/~syougai/syogai/info-3107-288.html |title=磯節の大洗遺産認定について |publisher=大洗町 |date= |accessdate=2021-05-19}}</ref>。
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== 歌詞 == |
== 歌詞 == |
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(唄)<br/>磯で名所は大洗様よ(サイショネー)松が見えますほのぼのと(オヤ松がネ)見えますイソほのぼのと |
(唄)<br/>磯で名所は大洗様よ(サイショネー)松が見えますほのぼのと(オヤ松がネ)見えますイソほのぼのと |
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|日本放送協会業務局 編『[{{NDLDC|1885025}} 日本民謡大観. 第1篇 (関東篇)]』(日本放送協会発行) より引用}} |
|日本放送協会業務局 編『[{{NDLDC|1885025}} 日本民謡大観. 第1篇 (関東篇)]』(日本放送協会発行) より引用}} |
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上記の他「磯で曲り松 |
上記の他「三十五反の 帆を巻き上げて 行くは仙台石の巻」をはじめに「磯で曲り松」や「水戸を離れて」「山で赤いのは」からはじまる詞が歌われる<ref name="taikan"/><ref name="tokyodo"/>。詞形は[[甚句]]と同じく七七七五で構成されており、末の七五の反復により七七七五七五としている<ref name="taikan">[{{NDLDC|1885025}} 『日本民謡大観. 第1篇 (関東篇)』], p.55</ref>。 |
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囃子の「テヤ」は漁師が[[カツオ]]漁であげる掛け声「トーイヤ(遠いや)」が変化したものである。「イササカリンリン」はカツオを運ぶ馬が磯坂(ひたちなか市・磯浜地域の坂)を通る際の鈴の音を表す。「好かれちゃドンドン」は若い漁師たちが気に入った遊郭で騒ぐ様子から「サイショネー」は遊女からの「 |
囃子の「テヤ」は漁師が[[カツオ]]漁であげる掛け声「トーイヤ(遠いや)」が変化したものである。「イササカリンリン」はカツオを運ぶ馬が磯坂(ひたちなか市・磯浜地域の坂)を通る際の鈴の音を表す。「好かれちゃドンドン」は若い漁師たちが気に入った遊郭で騒ぐ様子から「サイショネー」は遊女からの「最初にきてください」との再会を願う言葉である<ref>{{Cite book|和書|author1=町田 喜章|author2=浅野健二 |title=日本民謡集 |publisher=岩波書店|series=岩波文庫 |year=1960 |pages=123-125}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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[[Category:日本の民謡の楽曲]] |
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[[Category:楽曲 い|そふし]] |
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