「米窪満亮」を編集中
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{{文学}} |
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{{政治家 |
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|人名 = 米窪 満亮 |
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|各国語表記 = よねくぼ みつすけ |
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|画像 = Yonekubo Mitsusuke.jpg |
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|画像説明 = |
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|国略称 = {{JPN}} |
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|生年月日 = [[1888年]][[9月16日]] |
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|出生地 = [[長野県]][[塩尻市]] |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1888|9|16|1951|1|16}} |
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|死没地 = |
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|出身校 = 旧制東京高等商船学校<br/>(現・[[東京海洋大学]]) |
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|前職 = [[日本郵船]]社員<br/>[[日本海員組合]]副組合長<br/>[[日本労働倶楽部]]書記長 |
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|現職 = |
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|所属政党 = ([[社会民衆党]]→)<br/>([[社会大衆党]]→)<br>([[勤労国民党]]→)<br/>(無所属→)<br/>[[日本社会党]] |
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|称号・勲章 = |
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|世襲の有無 = |
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|親族(政治家) = |
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|配偶者 = |
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|サイン = |
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|ウェブサイト = |
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|サイトタイトル = |
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|国旗 = 日本 |
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|職名 = 初代 [[労働省|労働大臣]] |
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|内閣 = [[片山内閣]] |
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|選挙区 = |
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|当選回数 = |
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|就任日 = [[1947年]][[6月10日]] |
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|退任日 = [[1948年]][[3月10日]] |
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|国旗2 = 日本 |
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|職名2 = [[衆議院|衆議院議員]] |
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|内閣2 = |
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|選挙区2 = [[兵庫県第2区 (中選挙区)|兵庫県第2区]] |
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|当選回数2 = 3回 |
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|就任日2 = [[1946年]][[4月11日]] |
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|退任日2 = [[1951年]][[1月26日]] |
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|退任理由2 = 在職のまま死去 |
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|国旗3 = 日本 |
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|職名3 = 衆議院議員 |
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|内閣3 = |
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|選挙区3 = 兵庫県第2区 |
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|当選回数3 = 3回 |
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|就任日3 = [[1932年]][[2月21日]] |
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|退任日3 = [[1942年]][[4月30日]] |
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|退任理由3 = |
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明治21年︵1881年︶9月16日[[長野県]][[東筑摩郡]][[塩尻町]]︵現、[[塩尻市]]︶に農家の二男として生まれる。父親は病弱で一家の生計は母親が支えたが、米窪が17歳の時に母親が亡くなる。米窪は、町の医師の家に住み込みをしながら学資を捻出し、旧制松本中学︵現在の[[長野県松本深志高等学校]]︶を卒業する。中学卒業後、山国に育ち海に憧れていたこともあり、学資を貸与していた商船学校︵東京高等商船学校、旧東京商船大学ー現在の[[東京海洋大学]]︶に入学する。[[明治45年]]︵[[1912年]]︶から[[大正2年]]︵[[1913年]]︶にかけて、練習船大成丸に乗船し1年3ヶ月に及ぶ訓練航海で世界一周する。米窪は、この訓練航海で毎日航海日誌を綴っていた。これが﹁大成丸世界周遊記﹂として[[朝日新聞]]に連載される。この作品は[[夏目漱石]]の激賞を受け、﹁海のロマンス﹂と改題されて単行本として発売された際、漱石は同書に序文を寄せている。﹁海のロマンス﹂はベストセラーとなり、この影響で海にあこがれる青年が増加し、商船学校や[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]への志願者が増加したと言われている。
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== 経歴・人物 == |
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=== 生い立ちと初期の経歴 === |
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[[日本郵船]]に入社し、実習生を経て船長になる。しかし、海員の待遇の悲惨さを目の当たりにし、米窪は、雑誌﹁海と人﹂に﹁マドロスの悲哀﹂を発表し、内部告発に踏み切る。これに激怒した日本郵船社長の[[近藤廉平]]によって会社を追われた上、[[大阪商船]]、[[三井船舶]]、[[東洋汽船]]、[[山下海運]]などからも危険思想の持ち主として忌避されることとなり、結局、松昌洋行という規模の小さな船会社に船長として採用される。[[1914年]][[第一次世界大戦]]が勃発すると日本は空前の海運景気に沸き、米窪も互光商会に引き抜かれ、同社の[[シンガポール]]支店長として採用される。しかし、大戦後、不景気が訪れると、同社は倒産する。
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失業した米窪は、しばらく[[神戸市|神戸]]で徒食の生活を送るが、海上労働者の待遇改善要求の運動に身を投じる。また、草創期の労働界も船長として国際航路で活躍し、文筆で海運業界の内幕を批判した米窪を見逃さなかった。[[大正8年]]︵[[1919年]]︶ILO︵[[国際労働機関]]︶日本代表として[[鈴木文治]]らとともに国際会議に出席する。[[大正10年]]︵[[1921年]]︶日本海員組合の組合長[[楢崎猪太郎]]により、組合機関紙﹁海員﹂の編集部長に迎えられる。以後、庶務部長、国際部長を経て、副組合長に選出される。米窪の入会は海員組合に歓迎され、楢崎組合長をはじめ、米窪に対しては敬意を払い﹁さん﹂づけで呼んだという。また、米窪も期待に答え、組合に関係する対外的交渉を一手に引き受けた。米窪は[[総同盟]]の[[松岡駒吉]]に対して労働組合運動の一本化を提唱し、[[日本労働倶楽部]]として大同団結を実現した。米窪は[[書記長]]に選出される。日本労働倶楽部は、[[日本労働組合会議]]となるが、[[昭和15年]]︵[[1940年]]︶に解散を命ぜられるまで米窪は書記長として活躍した。
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=== 労働運動から政界へ === |
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失業した米窪は、しばらく[[神戸市|神戸]]で徒食の生活を送るが、海上労働者の待遇改善要求の運動に身を投じる。また、草創期の労働界も船長として国際航路で活躍し、文筆で海運業界の内幕を批判した米窪を見逃さなかった。[[ |
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国際労働運動では、[[ |
国際労働運動では、[[昭和3年]]︵[[1928年]]︶第11回国際労働会議日本代表として出席する。米窪は、長い船員生活を通じて英語に堪能であり、通訳なしで各国代表と渡り合うことができた。[[ジュネーブ]]で開かれた労働会議で議長の[[アルベール・トーマ]]から記念に開会を告げる槌が贈呈されたが、この槌に刻まれた﹁汝平和を欲すれば正義を耕せ﹂を米窪は好んで揮毫した。
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昭和3年︵1928年︶日本最初の[[普通選挙]]となった[[第16回衆議院議員総選挙]]に旧兵庫2区より[[社会民衆党]]から立候補する。社会民衆党などの[[無産政党]]からは、米窪など82名の候補者が立候補したが、当選したのはわずか8名で、米窪も落選した。[[昭和5年]]︵[[1930年]]︶[[第17回衆議院議員総選挙]]にも立候補したが落選。[[昭和7年]]︵[[1932年]]︶[[第18回衆議院議員総選挙]]では、前2回の選挙で無産政党が分立し、互いの票を奪い合う結果になった反省に立って、候補者を30名に絞込み、社会民衆党と[[労農大衆党]]は、合同し[[社会大衆党]]を結成した。この選挙で米窪は初当選し、社会大衆党は37名の当選者を獲得した。[[昭和15年]]︵[[1940年]]︶[[2月2日]]衆議院において、[[斎藤隆夫]]が行った[[反軍演説]]と斎藤の除名を契機に米窪、[[安部磯雄]]、[[片山哲]]、[[西尾末広]]らは、勤労国民党を結成するが、[[内務省 (日本)|内務省]]から結社禁止処分を受ける。[[昭和17年]]︵[[1942年]]︶﹁[[翼賛選挙]]﹂として悪名高い[[第21回衆議院議員総選挙]]で非推薦で立候補、落選を余儀なくされる。
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== 戦後 == |
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[[昭和20年]]︵[[1945年]]︶終戦を迎えると、米窪は海員組合の再建に着手し、[[全日本海員組合]]を結成する。また、戦後旧無産党勢力を糾合した[[日本社会党]]結成に参加する。しかし、社会党は当初から左右両派の対立が激しく、米窪は、[[水谷長三郎]]、[[河野密]]らと中間派に位置し調停役に徹する。[[昭和22年]]︵[[1947年]]︶[[第23回衆議院議員総選挙]]で社会党は第一党となり、社会党、[[民主党 (日本)|民主党]]、[[国民協同党]]の三党連立による[[片山内閣]]が成立すると、米窪は無任所の国務大臣として入閣する。さらに同年[[9月1日]]労働省が新設されると初代労働大臣に就任する。米窪は閣僚となっても、公用車を用いることもなく、友人が開いた就任祝いには、一升徳利をぶら下げて電車に乗ってかけつけたというエピソードが知られるほど、金銭面では恬淡とし清廉であった。しかし、労相として当時、強力であった[[産別会議]]を中心とする労働攻勢に対処せざるを得なかったのは、自らも労働運動に身を置いた身には皮肉であった。
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片山内閣が社会党左派と野党によって、補正予算否決をきっかけに倒れ、社会党左右両派の対立は激化の一途をたどる。[[ |
片山内閣が社会党左派と野党によって、補正予算否決をきっかけに倒れ、社会党左右両派の対立は激化の一途をたどる。[[昭和25年]]︵[[1950年]]︶に分裂すると米窪は[[三宅正一]]とともに両派の調停に努めたが、不首尾に終わった。米窪は浅沼稲次郎とともに統一懇談会を結成し、一時的な統一に成功するかに見えたが、[[昭和26年]]︵[[1951年]]︶[[サンフランシスコ講和条約]]をめぐり、左右両派は再び対立し、社会党は左右両派に分裂する。同年1月26日失意のうちに死去。69歳。
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| title = 米窪満亮 |
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| url = http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yonekubo_m.html |
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| date = |
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| accessdate = 2013.12.28 }}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references /> |
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== 外部リンク == |
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* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yonekubo_m.html 米窪満亮] |
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* [http://kokkai.sugawarataku.net/giin/hhr00311.html 米窪満亮 | 衆議院本会議発言 | 国会議員白書] |
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| title = {{Flagicon|JPN}} [[労働省|労働大臣]] |
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| before = 新設 |
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| years = 初代:1947年 - 1948年 |
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| after = [[加藤勘十]] |
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{{旧兵庫2区選出衆議院議員(1947-1993)}} |
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{{Normdaten}} |
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{{先代次代|[[労働省|労働大臣]]|初代:1947 - 1948|(新設)|[[加藤勘十]]}} |
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{{DEFAULTSORT:よねくほ みつすけ}} |
{{DEFAULTSORT:よねくほ みつすけ}} |
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[[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] |
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[[Category: |
[[Category:衆議院議員]] |
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[[Category:日本 |
[[Category:日本の閣僚経験者]] |
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[[Category:長野県の政治家]] |
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[[Category:在職中に死去した衆議院議員]] |
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[[Category:昭和時代戦後の閣僚]] |
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[[Category:日本の労働大臣]] |
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[[Category:日本の小説家]] |
[[Category:日本の小説家]] |
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[[Category:日本の海事労働運動の人物]] |
[[Category:日本の海事労働運動の人物]] |
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[[Category:1881年生]] |
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[[Category:東京海洋大学出身の人物]] |
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[[Category:長野県松本深志高等学校出身の人物]] |
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[[Category:長野県出身の人物]] |
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[[Category:1888年生]] |
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[[Category:1951年没]] |
[[Category:1951年没]] |