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唐本御影︵とうほん みえい︶は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画。聖徳太子及び二王子像︵しょうとくたいし および におうじ ぞう︶とも称される。百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたとの伝説により阿佐太子御影 ︵あさ たいし の みえい︶とも呼ばれる。
法隆寺が所蔵していたが、1878年、﹁法隆寺献納宝物﹂の1つとして皇室に献納し、現在は御物。
人物
1930年以来1984年まで一万円札などの高額紙幣に使われた聖徳太子肖像はこれから採られた。歴史教科書などにも使われていたので、多くの人が思い浮かべる聖徳太子の姿に決定的影響を与えている。
2人の王子は、右前方︵向かって左︶が弟の殖栗皇子、左後方︵向かって右︶が息子の山背大兄王とされる。
1983年、当時の東京大学史料編纂所の所長であった今枝愛真が表装布上に﹁川原寺﹂という文字を見いだし、聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えたが、文字を織り込んだ織物の文字を誤読したものだった[1]。
制作時期は8世紀頃とみられるが、中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着はついていない。最近の教科書や歴史参考書等では、この画像を掲載する場合﹁伝・聖徳太子﹂と説明したものも多くなっている。
画風
衣文に沿って軽い陰影のあるこの画風は、西域から中国に流入した陰影法であり、六朝時代の肖像画に使われていた画風である[2][3]。日本の肖像画では奈良時代に入ると共にこの陰影を失っており、中国でも同様であろうとされる[2]。また、中央に本人、左右に二王子が並ぶ構図は、閻立本﹃帝王図巻﹄との類似性が指摘されている[3]。
由来
法隆寺に収蔵された時期は定かではないが、12世紀半ばには大江親通が法隆寺を訪れて実見し、﹃七大寺巡礼私記﹄に﹁太子俗形の御影﹂と記述したのが文献初出である[4]。
13世紀半ば︵鎌倉時代︶に法隆寺の僧・顕真による﹃聖徳太子伝私記﹄でこの絵を﹁唐本御影﹂と呼び、その由来について色々な説があるとして、そのうち2つを挙げている。
●一つは、唐人の前に聖徳太子が応現したものを唐人が2枚描き留め、1枚を日本に残し、1枚を本国に持ち帰った。
●紹介されているもう一つは、顕真と同時期に法隆寺の復興に尽力した西山法華山寺・慶政による説で、唐人ではなく百済の阿佐太子の前に応現した姿とする。
﹁唐本御影﹂﹁阿佐太子御影﹂の呼び名は顕真の﹃聖徳太子伝私記﹄に由来する。
﹁応現﹂とは相手に応じて変身して現れることで、すなわち顕真は、この絵は日本に渡来した外国人により描かれたもので、聖徳太子の服装が日本風でない理由を﹁応現﹂で説明する。顕真がこの絵を重視した理由は、聖徳太子信仰の本場として平安貴族らに支持を得てきた四天王寺に対抗する意図があったと、追手門学院大学教授の武田佐知子は推測している。鎌倉幕府に接収された播磨国の法隆寺領を取り返す示威として、鎌倉に持ち込まれたこともある[4]。
いずれにせよ、おなじみの冠に笏を持った姿は、飛鳥時代の人物の服装とは考えられていない。人物の冠、服装などの様式研究から、この絵の制作年代は早くとも8世紀︵奈良時代︶と考えられ、平安時代以降の模本とする説もある[5]。
脚注・出典
(一)^ 東野 治之,書の古代史,第1章8﹁聖徳太子画像の墨書﹂, 岩波書店、1994年、新装版﹁岩波人文書セレクション﹂、2010年
(二)^ ab﹃東洋美術論叢﹄ P.90 金原省吾 1934年
(三)^ ab﹃日本の肖像畫と鎌倉時代﹄ 内藤湖南 1920年
(四)^ ab︻美の美︼聖徳太子のまなざし(上)釈迦三尊像﹃日本経済新聞﹄朝刊2016年10月23日︵17面︶。
(五)^ 制作年代については以下の資料による。
●﹃週刊朝日百科﹄﹁皇室の名宝 御物1﹂、朝日新聞社、pp.357 - 359
●﹃御即位20年記念特別展 皇室の名宝﹄︵特別展図録︶、東京国立博物館、2009、p.173