「芥川龍之介」を編集中
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[[1898年]]︵明治31年︶、江東︵こうとう︶[[尋常小学校]]入学︵芥川卒業後、﹁江東﹂は﹁えひがし﹂と読むようになる。現在の[[墨田区立両国小学校]]︶。[[東京都立両国高等学校・附属中学校|東京府立第三中学校]]を卒業の際に﹁多年成績優等者﹂の賞状を受け、[[1910年]]︵明治43年︶9月、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第一部乙類英文科に入学{{refnest|group=*|name=class|クラスは一年三之組。第一部乙類︵英文科︶は3年間この1クラスのみ。}}。1910年︵明治43年︶に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に[[久米正雄]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[松岡讓]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[佐野文夫]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[菊池寛]]{{refnest|group=*|name=class}}、井川恭︵のちの[[恒藤恭]]︶{{refnest|group=*|name=class}}、[[土屋文明]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[倉田百三]]︵第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組︶、[[渋沢秀雄]]︵第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組︶、[[矢内原忠雄]]︵第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組︶らがいた。2年生になり一高の[[学生寮#全寮制|全寮主義]]のため[[学生寮|寄宿寮]]に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は﹃第一高等学校一覧﹄︵第一高等学校刊行︶によると<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812884/73 ﹃第一高等学校一覧 明治43-44年﹄︵入学時︶、132頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812885/69 ﹃第一高等学校一覧 明治44-45年﹄︵2年進学時︶、126頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940275/65 ﹃第一高等学校一覧 大正元年-2年﹄︵3年進学時︶、118頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/161 ﹃第一高等学校一覧 大正2年-3年﹄︵卒業時︶、310頁]</ref>、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている{{refnest|group=*|名簿は前年の成績順。}}。[[1913年]]︵大正2年︶<!--一高第一部乙類を2番の成績で卒業︵一高第一部乙類首席は井川恭︶-->、[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
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[[1898年]]︵明治31年︶、江東︵こうとう︶[[尋常小学校]]入学︵芥川卒業後、﹁江東﹂は﹁えひがし﹂と読むようになる。現在の[[墨田区立両国小学校]]︶。[[東京都立両国高等学校・附属中学校|東京府立第三中学校]]を卒業の際に﹁多年成績優等者﹂の賞状を受け、[[1910年]]︵明治43年︶9月、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第一部乙類英文科に入学{{refnest|group=*|name=class|クラスは一年三之組。第一部乙類︵英文科︶は3年間この1クラスのみ。}}。1910年︵明治43年︶に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に[[久米正雄]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[松岡讓]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[佐野文夫]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[菊池寛]]{{refnest|group=*|name=class}}、井川恭︵のちの[[恒藤恭]]︶{{refnest|group=*|name=class}}、[[土屋文明]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[倉田百三]]︵第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組︶、[[渋沢秀雄]]︵第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組︶、[[矢内原忠雄]]︵第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組︶らがいた。2年生になり一高の[[学生寮#全寮制|全寮主義]]のため[[学生寮|寄宿寮]]に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は﹃第一高等学校一覧﹄︵第一高等学校刊行︶によると<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812884/73 ﹃第一高等学校一覧 明治43-44年﹄︵入学時︶、132頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812885/69 ﹃第一高等学校一覧 明治44-45年﹄︵2年進学時︶、126頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940275/65 ﹃第一高等学校一覧 大正元年-2年﹄︵3年進学時︶、118頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/161 ﹃第一高等学校一覧 大正2年-3年﹄︵卒業時︶、310頁]</ref>、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている{{refnest|group=*|名簿は前年の成績順。}}。[[1913年]]︵大正2年︶<!--一高第一部乙類を2番の成績で卒業︵一高第一部乙類首席は井川恭︶-->、[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
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東京帝大在学中の[[1914年]](大正3年)2月、一高同期(クラスメイト)の菊池寛、久米正雄らとともに[[同人誌]]『[[新思潮]]』(第3次)を刊行。まず「'''柳川隆之助'''」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名で[[アナトール・フランス]]の『[[バルタザアル]]』、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イエーツ]]の『[[春の心臓]]』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、[[青山学院女子短期大学|青山女学院]]英文科卒の吉田弥生<ref group="*">1892年生まれ。1915年に陸軍軍人と結婚。1973年死去。</ref>という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。[[1915年]](大正4年)10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「'''芥川龍之介'''」名で『帝国文学』に発表。 |
東京帝大在学中の[[1914年]](大正3年)2月、一高同期(クラスメイト)の菊池寛、久米正雄らとともに[[同人誌]]『[[新思潮]]』(第3次)を刊行。まず「'''柳川隆之助'''」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名で[[アナトール・フランス]]の『[[バルタザアル]]』、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イエーツ]]の『[[春の心臓]]』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、[[青山学院女子短期大学|青山女学院]]英文科卒の吉田弥生<ref group="*">1892年生まれ。1915年に陸軍軍人と結婚。1973年死去。</ref>という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。[[1915年]](大正4年)10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「'''芥川龍之介'''」名で『帝国文学』に発表。 |
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[[1916年]]︵大正5年︶には第4次﹃新思潮﹄︵メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]ら5人︶を発刊したが、その創刊号に掲載した﹃鼻﹄が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業{{refnest|group=*|芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した︵芥川龍之介﹃その頃の赤門生活﹄より︶。}}。卒論は﹁[[ウィリアム・モリス]]研究﹂。同年12月、[[海軍機関学校]]英語教官を長く勤めた[[浅野和三郎]]が[[新宗教]]﹁[[大本]]︵当時は皇道大本︶﹂に入信するため辞職する<ref>[[#神の罠|神の罠]], 36頁</ref>。そこで[[畔柳芥舟]]や[[市河三喜]]ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦︵[[内田百閒]]によれば夏目漱石の口添えがあったとも︶、芥川は海軍機関学校の嘱託教官︵担当は英語︶として教鞭を執った<ref>[[#神の罠|神の罠]], 38.178頁</ref><ref group="*">防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録﹃職員進退録﹄に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、[[アジア歴史資料センター]]でのネット公開の対象外である。</ref>。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集﹃羅生門﹄を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集﹃煙草と悪魔﹄を発刊している。
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[[1916年]]︵大正5年︶には第4次﹃新思潮﹄︵メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]ら5人︶を発刊したが、その創刊号に掲載した﹃鼻﹄が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業{{refnest|group=*|芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した︵芥川龍之介﹃その頃の赤門生活﹄より︶。}}。卒論は﹁[[ウィリアム・モリス]]研究﹂。同年12月、[[海軍機関学校]]英語教官を長く勤めた[[浅野和三郎]]が[[新宗教]]﹁[[大本]]︵当時は皇道大本︶﹂に入信するため辞職する<ref>[[#神の罠|神の罠]], 36頁</ref>。そこで[[畔柳芥舟]]や[[市河三喜]]ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦︵[[内田百閒]]によれば夏目漱石の口添えがあったとも︶、芥川は海軍機関学校の嘱託教官︵担当は英語︶として教鞭を執った<ref>[[#神の罠|神の罠]], 38.178頁</ref><ref group="*">防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録﹃職員進退録﹄に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、[[アジア歴史資料センター]]でのネット公開の対象外である。</ref>。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集﹃羅生門﹄を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集﹃煙草と悪魔﹄を発刊している。
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なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868→1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=414 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。
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なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868→1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=414 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。
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[[1918年]]︵大正7年︶の秋、懇意にしていた[[小島政二郎]]︵﹃[[三田文学]]﹄同人︶と[[澤木四方吉]]︵﹃[[三田文学]]﹄主幹で西洋美術史家︶の斡旋で[[慶應義塾大学]][[文学部]]への就職の話があり、[[履歴書]]まで出したが、実現をみなかった<ref>{{harvnb|関口|1992|p=213}}</ref>。[[1919年]]︵大正8年︶3月、海軍機関学校の教職を辞して[[大阪毎日新聞|大阪毎日新聞社]]に入社︵新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない︶、創作に専念する<ref>芥川龍之介 ﹁[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3753_27325.html 入社の辞]﹂、1919年3月。</ref>。ちなみに師の漱石も[[1907年]]︵明治40年︶、同じように[[朝日新聞社]]に入社している。
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[[1918年]]︵大正7年︶の秋、懇意にしていた[[小島政二郎]]︵﹃[[三田文学]]﹄同人︶と[[澤木四方吉]]︵﹃[[三田文学]]﹄主幹で西洋美術史家︶の斡旋で[[慶應義塾大学]][[文学部]]への就職の話があり、[[履歴書]]まで出したが、実現をみなかった<ref>{{harvnb|関口|1992|p=213}}</ref>。[[1919年]]︵大正8年︶3月、海軍機関学校の教職を辞して[[大阪毎日新聞|大阪毎日新聞社]]に入社︵新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない︶、創作に専念する<ref>芥川龍之介 ﹁[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3753_27325.html 入社の辞]﹂、1919年3月。</ref>。ちなみに師の漱石も[[1907年]]︵明治40年︶、同じように[[朝日新聞社]]に入社している。
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