「芥川龍之介」を編集中
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
47行目: | 47行目: | ||
[[画像:Kume Matsuoka Akutagawa Naruse.jpg|thumb|left|300px|東京帝国大学を卒業する1916年︵大正5年︶頃の第4次﹃新思潮﹄のメンバー。右から2番目が芥川龍之介、一番右は成瀬正一、一番左から久米正雄、松岡譲。]]
|
[[画像:Kume Matsuoka Akutagawa Naruse.jpg|thumb|left|300px|東京帝国大学を卒業する1916年︵大正5年︶頃の第4次﹃新思潮﹄のメンバー。右から2番目が芥川龍之介、一番右は成瀬正一、一番左から久米正雄、松岡譲。]]
|
||
[[1916年]](大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]ら5人)を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業{{refnest|group=*|芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した(芥川龍之介『その頃の赤門生活』より)。}}。卒論は「[[ウィリアム・モリス]]研究」。同年12月、[[海軍機関学校]]英語教官を長く勤めた[[浅野和三郎]]が[[新宗教]]「[[大本]](当時は皇道大本)」に入信するため辞職する<ref>[[#神の罠|神の罠]], 36頁</ref>。そこで[[畔柳芥舟]]や[[市河三喜]]ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦([[内田百閒]]によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った<ref>[[#神の罠|神の罠]], 38.178頁</ref><ref group="*">防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録『職員進退録』に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、[[アジア歴史資料センター]]でのネット公開の対象外である。</ref>。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。 |
[[1916年]](大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]ら5人)を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業{{refnest|group=*|芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した(芥川龍之介『その頃の赤門生活』より)。}}。卒論は「[[ウィリアム・モリス]]研究」。同年12月、[[海軍機関学校]]英語教官を長く勤めた[[浅野和三郎]]が[[新宗教]]「[[大本]](当時は皇道大本)」に入信するため辞職する<ref>[[#神の罠|神の罠]], 36頁</ref>。そこで[[畔柳芥舟]]や[[市河三喜]]ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦([[内田百閒]]によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った<ref>[[#神の罠|神の罠]], 38.178頁</ref><ref group="*">防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録『職員進退録』に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、[[アジア歴史資料センター]]でのネット公開の対象外である。</ref>。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。 |
||
なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868→1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=414 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。
|
|||
[[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|thumb|right|240px|1919年︵大正8年︶長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は[[菊池寛]]<!--、奥の二人は左から[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]-->。]]
|
[[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|thumb|right|240px|1919年︵大正8年︶長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は[[菊池寛]]<!--、奥の二人は左から[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]-->。]]
|