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'''花柳 芳次郎'''︵はなやぎ よしじろう︶は、[[日本舞踊]]・[[花柳流]]における[[名跡]]のひとつである。花柳流を創流した[[花柳壽輔 (初世)|初代花柳壽輔]]が、壽輔を名乗る前の名前に由来し、花柳流においては最も古い名跡であり、[[花柳壽輔]]に次ぐ由緒ある名跡とされる。 2代目花柳芳次郎は初代壽輔の長男であり、瀬川路之丞の名で[[歌舞伎]]役者となったが、[[1873年]]に29歳で病死する。初代壽輔は養子を迎え3代目芳次郎を継がせたが、この養子とは1904年頃に離縁し、芳次郎の名跡は初代壽輔の養女花柳ツルが預かることとなった。 名跡が継がれたのは[[1926年]]で、ツルの養子である花柳幾太郎が4代目 花柳芳次郎となった。4代目花柳芳次郎︵[[1903年]][[5月18日]] - [[1971年]][[9月6日]]︶は旧姓を金子といい、[[1909年]]に6歳で入門し、翌[[1910年]]にツルの養子となった人物である。当時の花柳流家元[[花柳壽輔 (2世)|2世花柳壽輔]]が東京にある 中、4代目芳次郎は襲名とともに分家として、当時花柳流の勢力が弱かった関西に強固な地盤を築いた。その後[[1967年]]に、長男の寛に芳次郎の名跡を継ぐとともに花柳芳瞠︵はなやぎ ほうどう︶を名乗った。 [[花柳壽輔 (4世)|5代目 花柳芳次郎]]は、襲名前から本名の花柳寛の名で[[東宝]]歌舞伎などの芝居やテレビドラマに出演しており、また振付師としても[[宝塚歌劇団]]などで振付をしていた。襲名後は家元[[花柳壽輔 (3世)|3世花柳壽輔]]の後見を[[花柳壽楽 (2代目)|2代目花柳壽楽]]とともに務め、流派を支えた。芳次郎は[[2007年]]に一線を退くと共に名跡を孫に譲り、自らは花柳寛應︵はなやぎ かんおう︶に改名する予定であった。しかし寛應襲名披露の直前に[[花柳壽輔 (3世)|3世壽輔]]が急逝したため、[[花柳壽輔 (4世)|4世壽輔]]を継ぎ家元となった。6代目は5代目芳次郎︵4世壽輔︶の孫、[[花柳芳次郎 (6代目)|花柳創右]]が襲名している。 [[花柳芳次郎 (6代目)|六代目 花柳芳次郎]]は、[[花柳壽輔 (4世)|四代目花柳壽輔]]の孫である。
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2011年12月14日 (水) 02:49時点における版
花柳 芳次郎︵はなやぎ よしじろう︶は、日本舞踊・花柳流における名跡のひとつである。花柳流を創流した初代花柳壽輔が、壽輔を名乗る前の名前に由来し、花柳流においては最も古い名跡であり、花柳壽輔に次ぐ由緒ある名跡とされる。
2代目花柳芳次郎は初代壽輔の長男であり、瀬川路之丞の名で歌舞伎役者となったが、1873年に29歳で病死する。初代壽輔は養子を迎え3代目芳次郎を継がせたが、この養子とは1904年頃に離縁し、芳次郎の名跡は初代壽輔の養女花柳ツルが預かることとなった。
名跡が継がれたのは1926年で、ツルの養子である花柳幾太郎が4代目 花柳芳次郎となった。4代目花柳芳次郎︵1903年5月18日 - 1971年9月6日︶は旧姓を金子といい、1909年に6歳で入門し、翌1910年にツルの養子となった人物である。当時の花柳流家元2世花柳壽輔が東京にある
中、4代目芳次郎は襲名とともに分家として、当時花柳流の勢力が弱かった関西に強固な地盤を築いた。その後1967年に、長男の寛に芳次郎の名跡を継ぐとともに花柳芳瞠︵はなやぎ ほうどう︶を名乗った。
5代目 花柳芳次郎は、襲名前から本名の花柳寛の名で東宝歌舞伎などの芝居やテレビドラマに出演しており、また振付師としても宝塚歌劇団などで振付をしていた。襲名後は家元3世花柳壽輔の後見を2代目花柳壽楽とともに務め、流派を支えた。芳次郎は2007年に一線を退くと共に名跡を孫に譲り、自らは花柳寛應︵はなやぎ かんおう︶に改名する予定であった。しかし寛應襲名披露の直前に3世壽輔が急逝したため、4世壽輔を継ぎ家元となった。6代目は5代目芳次郎︵4世壽輔︶の孫、花柳創右が襲名している。
六代目 花柳芳次郎は、四代目花柳壽輔の孫である。