「野村胡堂」を編集中
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|birth_name={{ruby|野村 長一|のむら おさかず}} |
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|birth_date={{生年月日|1882|10|15}} |
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|occupation=[[小説家]]<br>人物 |
|occupation=[[小説家]]<br>人物評論家 |
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|nationality={{JPN}} |
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|movement=[[日本作家クラブ]] |
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|notable_works=[[銭形平次捕物控]] |
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|awards=[[菊池寛賞]](1958年) |
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|children=[[松田瓊子]](娘,次女;まつだけいこ) |
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|influences=<!--影響を受けた作家名--> |
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|influenced=<!--影響を与えた作家名--> |
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|footnotes=特記事項:<br>音楽評論は「あらえびす」の筆名を使用。 |
|footnotes=特記事項:<br>音楽評論は「あらえびす」の筆名を使用。 |
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|resting_place=[[多磨霊園]]}} |
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{{読み仮名_ruby不使用|'''野村 胡堂'''{{refnest|group="注釈"|野村自身によると、編集の助手達が﹁お前は東北の生れだから、蛮人はどうだ、強そうで良いぞ﹂と言うのである。﹁蛮人では可哀相だ、人食い人種みたいじゃないか﹂と言うと﹁それでは胡堂と付けろ、胡馬北風に依るの胡だ、秦を亡ぼすものは胡なりの胡だ。堂という字はそれ、木堂、咢堂、奎堂などといって皆んなエライ人は堂という字をつける。それにきめておけ﹂と本人の私の意見などを無視して、翌る日の新聞の閑文字から、胡堂という署名が入ったわけである、という<ref name="ペンネーム由来記">{{Cite web |
{{読み仮名_ruby不使用|'''野村 胡堂'''{{refnest|group="注釈"|野村自身によると、編集の助手達が﹁お前は東北の生れだから、蛮人はどうだ、強そうで良いぞ﹂と言うのである。﹁蛮人では可哀相だ、人食い人種みたいじゃないか﹂と言うと﹁それでは胡堂と付けろ、胡馬北風に依るの胡だ、秦を亡ぼすものは胡なりの胡だ。堂という字はそれ、木堂、咢堂、奎堂などといって皆んなエライ人は堂という字をつける。それにきめておけ﹂と本人の私の意見などを無視して、翌る日の新聞の閑文字から、胡堂という署名が入ったわけである、という<ref name="ペンネーム由来記">{{Cite web |author=野村胡堂 |date=|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/57221_57404.html |title=随筆銭形平次 ペンネーム由来記 |publisher=青空文庫 |accessdate=2020-01-15}}</ref>。}}|のむら こどう|[[1882年]]︵[[明治]]15年︶[[10月15日]] - [[1963年]]︵[[昭和]]38年︶[[4月14日]]}}は、[[日本]]の[[小説家]]、人物評論家<ref name=":0" />。﹃[[銭形平次捕物控]]﹄の作者として知られる。[[音楽評論家]]としての筆名は'''あらえびす'''<ref name=":0">著者紹介、{{Cite book|和書|title=名曲決定盤|date=|year=1981|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|volume=下巻||author=あらえびす|authorlink=野村胡堂|editor=原著は1939年刊}}</ref><ref name="野村胡堂-野村学芸財団">{{Cite web |author=|date=|url=http://nomuragz.or.jp/kodou.html |title=野村胡堂 |publisher=野村学芸財団 |accessdate=2020-01-15}}</ref><ref>[[長尾宇迦]]﹁野村胡堂﹂[[村田源一朗]]編﹃岩手人名大鑑 岩手日報創刊110年記念﹄[[岩手日報社]]、昭和61年6月25日発刊、609頁。</ref><ref>[[尾崎秀樹]]﹁野村胡堂﹂平凡社編﹃日本人名大事典 現代﹄[[平凡社]]、一九七九年七月一〇日 初版第一刷発行、六〇二頁。</ref><ref>尾崎秀樹﹁野村胡堂﹂新潮社辞典編集部編﹃増補改訂 新潮日本文学辞典﹄[[新潮社]]、一九八八年一月二〇日 発行、ISBN 4-10-730208-3、986頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|野村自身によると、新聞に音楽や、絵のことを書くのに、胡堂でははなはだ堅いので、胡という字を柔らかく訓んで、﹁あらえびす﹂としたまでのことである、という<ref name="ペンネーム由来記"/>。[[紀田順一郎]]によると、大正十三年、レコード評を書くにあたってつけたもので、子供のころに見た狂言で安倍貞任が﹁奥州のあらえびす﹂と威張るのが印象にのこっていたためという<ref>[[紀田順一郎]]﹁野村胡道﹂﹃ペンネームの由来事典﹄[[東京堂書店]]、二〇〇一年九月二〇日 初版発行、ISBN 4-490-10581-9、196頁。</ref>。}}、'''野村あらえびす'''<ref>[[歌崎和彦]]﹃証言―日本洋楽レコード史︵戦前編︶﹄[[音楽之友社]]、一九九八年三月三十一日 第一刷発行、ISBN 4-276-21253-7、14~25頁。初出は、証言者 [[藁科雅美]]・レポーター 歌崎和彦﹁証言/日本レコード史 クラシック音楽の総明期﹂﹃[[レコード芸術]]﹄第39巻第1号 (通巻472号)、音楽之友社、1990年1月1日 発行、66~69頁。</ref><ref>[[奥村敏明]]﹁音楽文庫﹂﹃文庫パノラマ館﹄[[青弓社]]、二〇〇〇年十月三十日 第一版第一刷発行、ISBN 4-7872-9145-9、210~212頁。</ref><ref>日外アソシエーツ編﹃新訂 作家・小説家人名事典﹄[[日外アソシエーツ]]、2002年10月25日 第1刷発行、575頁。</ref><ref>[https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00122425 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス]</ref>とも。本名‥{{読み仮名_ruby不使用|'''野村 長一'''|のむら おさかず}}<ref name=":0" />。娘は作家の[[松田瓊子]]<ref>{{Cite web|title=松田瓊子|url=http://www.kawade.co.jp/np/search_result.html?writer_id=12228|website=|accessdate=2020-01-04|publisher=[[河出書房新社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200104051335/http://www.kawade.co.jp/np/search_result.html?writer_id=12228|archivedate=2019-1-4}}</ref>。
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[File:Former Nomura Kodo residence.jpg|thumb|旧居地([[東京都]][[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]])]] |
[[File:Former Nomura Kodo residence.jpg|thumb|旧居地([[東京都]][[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]])]] |
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*1882年 - [[岩手県]][[紫波郡]]彦部村︵現在の[[紫波町]]︶に農業を営み後に彦部[[村長]]となった父[[野村長四郎]]、母マサの次男として生まれる。彦部尋常小学校、紫波高等小学校に学ぶ。高等小学校のときに自宅が全焼するという災難にも見舞われた。小学校時代には﹃[[絵本太閤記]]﹄や﹃[[水滸伝]]﹄を熱心に読み、特に﹃水滸伝﹄の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭[[張清]]は、のちに銭形平次<!--リダイレクト-->の投げ銭を考案するときのヒントになったという。
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*1882年 - [[岩手県]][[紫波郡]]彦部村︵現在の[[紫波町]]︶に農業を営み後に彦部[[村長]]となった父[[野村長四郎]]、母マサの次男として生まれる。彦部尋常小学校、紫波高等小学校に学ぶ。高等小学校のときに自宅が全焼するという災難にも見舞われた。小学校時代には﹃[[絵本太閤記]]﹄や﹃[[水滸伝]]﹄を熱心に読み、特に﹃水滸伝﹄の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭[[張清]]は、のちに銭形平次<!--リダイレクト-->の投げ銭を考案するときのヒントになったという。
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*[[1896年]] - [[盛岡中学校]]︵現[[岩手県立盛岡第一高等学校]]︶に入学。同窓生には生涯付き合いが続く[[金田一京助]]がいた。金田一は胡堂の葬儀委員長を務めた。また、下級生に[[石川啄木]]が在籍しており、やはり同窓生だった[[及川古志郎]]に紹介されて知り合った<ref>[[郷原宏]]﹃胡堂と啄木﹄︵[[双葉社]]、2019年︶7頁</ref>。胡堂は啄木に[[俳句]]・[[短歌]]の手ほどきをしたと言われており、ともに校友会雑誌の編集を手掛けた |
*[[1896年]] - [[盛岡中学校]]︵現[[岩手県立盛岡第一高等学校]]︶に入学。同窓生には生涯付き合いが続く[[金田一京助]]がいた。金田一は胡堂の葬儀委員長を務めた。また、下級生に[[石川啄木]]が在籍しており、やはり同窓生だった[[及川古志郎]]に紹介されて知り合った<ref>[[郷原宏]]﹃胡堂と啄木﹄︵[[双葉社]]、2019年︶7頁</ref>。胡堂は啄木に[[俳句]]・[[短歌]]の手ほどきをしたと言われており、ともに校友会雑誌の編集を手掛けた。
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*[[1907年]] - [[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]に入学するが、父親の死亡により学資が続かず退学し、﹃[[報知新聞]]﹄を発行する報知社に入社して政治部に配属された。同紙に人物評論欄﹁人類館﹂を連載し、このとき﹁'''胡堂'''﹂を号とした。また、﹁'''あらえびす'''﹂の筆名で[[レコード]]評論等も執筆した。社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任 |
*[[1907年]] - [[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]に入学するが、父親の死亡により学資が続かず退学し、﹃[[報知新聞]]﹄を発行する報知社に入社して政治部に配属された。同紙に人物評論欄﹁人類館﹂を連載し、このとき﹁'''胡堂'''﹂を号とした。また、﹁'''あらえびす'''﹂の筆名で[[レコード]]評論等も執筆した。社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任。
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*[[1916年]] - 3月16日次女[[松田 |
*[[1916年]] - 3月16日次女[[松田けい子|けい子]]誕生。 |
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*[[1931年]] - [[文藝春秋]]発行の﹃文藝春秋オール讀物號﹄創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした﹁金色の処女﹂を発表、﹃銭形平次捕物控﹄の第1作目であった。これ以降、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]を挟んで[[1957年]]までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。
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*[[1931年]] - [[文藝春秋]]発行の﹃文藝春秋オール讀物號﹄創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした﹁金色の処女﹂を発表、﹃銭形平次捕物控﹄の第1作目であった。これ以降、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]を挟んで[[1957年]]までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。
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*[[1949年]] - 捕物作家クラブが結成され、初代会長に就任する。後に「[[日本作家クラブ]]」と改名して会長を継続。 |
*[[1949年]] - 捕物作家クラブが結成され、初代会長に就任する。後に「[[日本作家クラブ]]」と改名して会長を継続。 |
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*1963年[[4月14日]] - [[肺炎]]のため[[東京都]][[杉並区]][[上高井戸]]の自宅で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶257頁</ref>。享年80。[[1970年]]に日本作家クラブによって銭形平次の記念碑が[[神田明神]]境内に建立された。
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*1963年[[4月14日]] - [[肺炎]]のため[[東京都]][[杉並区]][[上高井戸]]の自宅で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶257頁</ref>。享年80。[[1970年]]に日本作家クラブによって銭形平次の記念碑が[[神田明神]]境内に建立された。
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*生前は[[武鑑]]やレコードの収集家として著名である。約40年間、1万3000枚ものレコードを、堅牢な収納庫で保管していた。1956年には、レコード1万枚を東京都に寄贈し、1963年には、武鑑600冊を含む古典籍960点余りを[[東京大学史料編纂所]]に寄贈した。
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*生前は[[武鑑]]やレコードの収集家として著名である。約40年間、1万3000枚ものレコードを、堅牢な収納庫で保管していた。1956年には、レコード1万枚を東京都に寄贈し、1963年には、武鑑600冊を含む古典籍960点余りを[[東京大学史料編纂所]]に寄贈した。
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*1995年に[[野村胡堂・あらえびす記念館]]が[[紫波町]]にできた<ref>{{Cite web|和書|title=記念館概要 {{!}} 野村胡堂・あらえびす記念館 |url=http://kodo-araebisu.jp/?page_id=594 |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref>。
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*2016年[[4月24日]] - 没後53年目に当たるこの年、自らが創立し、改名後も会長も続けた日本作家クラブが創設した第1回[[あらえびす文化賞]]特別賞を受賞。胡堂原作 |
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== 「あらえびす」の由来 == |
== 「あらえびす」の由来 == |
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== 作品・著作 == |
== 作品・著作 == |
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=== 一般 (野村長一名義)=== |
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*『二万年前:科学小説』(大明堂書店 1922年)<ref name="国立国会図書館デジタルコレクション書誌データ">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970270 |title=国立国会図書館デジタルコレクション書誌データ|accessdate=2022-03-21}}</ref> |
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=== 一般 (野村胡堂名義)=== |
=== 一般 (野村胡堂名義)=== |
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*『[[銭形平次捕物控]]』([[毎日新聞社]]) |
*『[[銭形平次捕物控]]』([[毎日新聞社]]) |
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*『太郎の旅』(子供の科学社 1926年) |
*『太郎の旅』(子供の科学社 1926年) |
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*『美男狩』([[平凡社]] 1929年) のち[[講談社文庫]]大衆文学館 |
*『美男狩』([[平凡社]] 1929年) のち[[講談社文庫]]大衆文学館 |
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*『踊る美人像』(文芸倶楽部 1930年) |
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*『火星探險』(平凡社(少年冒険小説全集)1930年) |
*『火星探險』(平凡社(少年冒険小説全集)1930年) |
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*『奇談クラブ』(四条書房 1931年)、河出書房新社(2018年) |
*『奇談クラブ』(四条書房 1931年)、河出書房新社(2018年) |
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[[Category:野村胡堂|*]] |
[[Category:野村胡堂|*]] |
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[[Category:日本の男性ジャーナリスト]] |
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[[Category: |
[[Category:日本の小説家]] |
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[[Category:20世紀日本の小説家]] |
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[[Category:日本の推理作家]] |
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[[Category:日本の音楽評論家]] |
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[[Category:戦前の報知新聞社の人物]] |
[[Category:戦前の報知新聞社の人物]] |
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[[Category:岩手県立盛岡第一高等学校出身の人物]] |
[[Category:岩手県立盛岡第一高等学校出身の人物]] |
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[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]] |
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[[Category:菊池寛賞受賞者]] |
[[Category:菊池寛賞受賞者]] |
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[[Category:日本のコレクター]] |
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[[Category:私の履歴書の登場人物]] |
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[[Category:岩手県出身の人物]] |
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<!--[[Category:ソニーの人物]]--> |
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