「野田文一郎」を編集中
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'''野田 文一郎'''︵のだ ぶんいちろう、[[1872年]][[4月12日]]︵[[明治]]5年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]︶ - [[1960年]]︵[[昭和]]35年︶[[3月9日]]︶は、[[広島県]] |
'''野田 文一郎'''︵のだ ぶんいちろう、[[1872年]][[4月12日]]︵[[明治]]5年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]︶ - [[1960年]]︵[[昭和]]35年︶[[3月9日]]︶は、[[広島県]]三次町︵後の[[三次市]]︶出身の[[裁判官]]、[[政治家]]。[[関西大学|関西法律学校]]︵後の[[関西大学]]︶卒業。[[位階|正四位]][[勲二等]][[旭日章|旭日重光章]]。
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== 経歴 == |
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広島県三次町︵後の三次市︶の[[造り酒屋]]に生まれ、関西法律学校卒業後、 |
広島県三次町︵後の三次市︶の[[造り酒屋]]に生まれ、関西法律学校卒業後、司法官試補となる。[[大津市|大津]]区裁を振り出しに[[神戸地方裁判所]]、[[大阪高等裁判所|大阪控訴院]][[判事]]を歴任後、[[兵庫県]][[神戸市]]で[[弁護士|弁護事務所]]を開業した。[[1920年]]、後[[立憲民政党]]となる[[憲政会]]から出馬し[[第14回衆議院議員総選挙|衆議院議員]]初当選。しかし[[1924年]]の[[第15回衆議院議員総選挙|総選挙]]で落選し議員生活を離れる。このため若手弁護士グループに担ぎ出され神戸弁護士会会長に就任。以後衆議院議員に5回当選。
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[[1930年]][[濱口内閣]]で商工参与官、[[1935年]][[企画院|内閣調査局]]参与等を歴任。その後大和信託会長、大満鉱業社長等を経て[[1942年]][[太平洋戦争]]開戦1ヶ月後の1月、市会の決 |
[[1930年]][[濱口内閣]]で商工参与官、[[1935年]][[企画院|内閣調査局]]参与等を歴任。その後大和信託会長、大満鉱業社長等を経て[[1942年]][[太平洋戦争]]開戦1ヶ月後の1月、市会の決戦投票で僅か1票差を持って第9代[[神戸市|神戸]][[市長]]に就任。野田は重点政策エリアの中心を[[阪神]]から西部へシフト。神戸市西に広がる明石平野に理想的新都市建設を提唱した。元々[[1938年]][[阪神大水害]]直後の[[代議士]]時代に提唱したものだが、それは以下のようなエピソードで知られる。[[1943年]]正月、野田は雌岡山︵後の[[西区 (神戸市)|西区]]神出町︶の頂に立ち、農家が点在するだけの処女地に[[満州]]で見た[[新京]]の町づくりをダブらせ、港の後背地として理想的な新都市建設を夢見る。﹁[[播磨国|東播]]は気候も良いし、[[地震]]も少ない。表玄関として[[神戸港]]を控え申し分ない地理的条件を備えている。神戸の間に横たわる[[六甲山地|鉄拐山]]が唯一の交通の障害といえるがトンネルを抜けばよい。海岸地帯は神戸港の補助港とし、後背地に[[総合大学]]を始め文化、厚生施設、住宅地帯を含む新都市をつくる﹂ 発足させた調査委員会には[[高橋三吉]]、[[阿部信行]]、[[永井柳太郎]]、[[末次信正]]、[[大谷光瑞]]、[[野村吉三郎]]ら政界、[[軍部]]の長老、最高実力者がずらり並んだ。戦争の激化と共にその大港都建設は神戸[[大本営]]構想と変わり﹁雌岡山に二重、三重の壕を掘り巡らして[[離宮]]を造営し[[陛下]]をお迎えする﹂という神戸[[遷都]]構想となった。[[1944年]]3月、[[決戦非常措置要綱]]発令により[[町村合併]]は中止され、市営郊外[[電車]]施設の着工も不可能となり構想は完全に宙に浮いた。戦後、[[西神ニュータウン]]の建設が始まった時、こうした野田の構想は再び輝きを増した。
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[[1942年]]局制を採用、総務、[[防衛]]など九局二部一室五十二課一場とし、12月には政府の行政簡素化の方針沿って[[戦時体制]]に移行。こうした状況下で後世、高い評価を得る﹁特別不動産資金﹂特別会計を設定させた。これは後に神戸市の都市経営の一つの柱になる[[公営|公共]][[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]の先駆けとして大きな財産となった。[[1945年]]3月、6月と[[神戸大空襲|大空襲]]が続く。6月の空襲は神戸の三分の二が焦土と化し、野田も公邸にあてられていた布引の旧川崎邸で被災。その後は市長公舎を転々。空襲は敗戦までに約130回にも及び八千人を越える死者を出した。野田は空襲恐怖症にとらわれたとも言われ、終戦間際の7月、﹁旺盛な精神力、体力、各位の信任の三つの条件が備わっていなければ、この時局の指導的地位には耐えられぬ﹂と自問。任期を半年残して辞任した。このため"悲運な"戦時市長とも呼ばれる。のち市長となる[[宮崎辰雄]]は野田の[[秘書]]を務めた事がある。
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[[1942年]]局制を採用、総務、[[防衛]]など九局二部一室五十二課一場とし、12月には政府の行政簡素化の方針沿って[[戦時体制]]に移行。こうした状況下で後世、高い評価を得る﹁特別不動産資金﹂特別会計を設定させた。これは後に神戸市の都市経営の一つの柱になる[[公営|公共]][[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]の先駆けとして大きな財産となった。[[1945年]]3月、6月と[[神戸大空襲|大空襲]]が続く。6月の空襲は神戸の三分の二が焦土と化し、野田も公邸にあてられていた布引の旧川崎邸で被災。その後は市長公舎を転々。空襲は敗戦までに約130回にも及び八千人を越える死者を出した。野田は空襲恐怖症にとらわれたとも言われ、終戦間際の7月、﹁旺盛な精神力、体力、各位の信任の三つの条件が備わっていなければ、この時局の指導的地位には耐えられぬ﹂と自問。任期を半年残して辞任した。このため"悲運な"戦時市長とも呼ばれる。のち市長となる[[宮崎辰雄]]は野田の[[秘書]]を務めた事がある。
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退任後 |
退任後、郷里・三次に帰り自宅を耕雲寺と名付け[[禅寺]]にし余生を送った。市長在任中から好んで[[ダルマ]]の絵を書いていたという。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』(日比谷政経社、1949年2月) |
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* 『日本の歴代市長 第二巻』(歴代知事編纂会、1983年11月) |
* 『日本の歴代市長 第二巻』(歴代知事編纂会、1983年11月) |
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* 『神戸市長14人の決断』([[神戸新聞社]]、1994年6月) |
* 『神戸市長14人の決断』([[神戸新聞社]]、1994年6月) |
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{{神戸市長}} |
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{{DEFAULTSORT:のた ふんいちろう}} |
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[[Category:日本の裁判官]] |
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[[Category:日本の弁護士]] |
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[[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] |
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[[Category:兵庫県選出の帝国議会議員]] |
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[[Category:神戸市長]] |
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[[Category:公職追放者]] |
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[[Category:明治時代の人物]] |
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[[Category:関西大学出身の人物]] |
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[[Category:広島県出身の人物]] |
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[[Category:正四位受位者]] |
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[[Category:1872年生]] |
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[[Category:1960年没]] |
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