金光宅吉
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金光宅吉︵こんこう いえよし 安政元~明治26(1854-1893))
今の浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治︵金光大神)登勢(とせ)の五男。
幼名は、宇之丞︵うのじょう︶、後に虎吉︵とらよし︶とあらためられる。
金光四神の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者からは二代金光様と呼ばれた。
神道本局傘下の神道金光教会で、金光教監を勤めた。
妻 喜代との間に、4男4女をもうけた。
︵金光攝胤︵せつたね︶、堤一二野︵ひふの︶、佐藤女子︵ひめこ︶、近藤明道︵あきみち︶、白神根能勢︵ねのせ︶、金光国開︵くにはる︶、金光三代太郎︵みよたろう︶、金光塩野︵しおの︶の8人︶
40歳で死去。遺言により息子の攝胤(せつたね‥1880~1963)が13歳で取次の座についた。
︵攝胤は、三代金光様と呼ばれ、教団独立後の信仰の中心となった。︶