「関根金次郎」を編集中
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* プロになってからは、金銭に執着がなく、無欲だった。指導将棋の謝礼(当時としてはかなりの高額である)をみんな周りにくれてやって帰ったことも1度や2度ではなかったという。この点は、ライバルと言われた[[坂田三吉]]と同じであった。 |
* プロになってからは、金銭に執着がなく、無欲だった。指導将棋の謝礼(当時としてはかなりの高額である)をみんな周りにくれてやって帰ったことも1度や2度ではなかったという。この点は、ライバルと言われた[[坂田三吉]]と同じであった。 |
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* 弟子に対しては慈愛をもって接し、小手先の勝敗にこだわらなかった。関根の最後の弟子である[[五十嵐豊一]]は、「奨励会でなかなか昇段できなくて、成績を報告しに行く時にいつ田舎に帰れ、と言われるかとびくびくしていたけど、関根先生はどんな時でも、顔色一つ変えずに『負けろ負けろ』と励ましてくれて、小遣いをくれたりした」と奨励会当時を述懐している<ref name="hyaku4"/>。 |
* 弟子に対しては慈愛をもって接し、小手先の勝敗にこだわらなかった。関根の最後の弟子である[[五十嵐豊一]]は、「奨励会でなかなか昇段できなくて、成績を報告しに行く時にいつ田舎に帰れ、と言われるかとびくびくしていたけど、関根先生はどんな時でも、顔色一つ変えずに『負けろ負けろ』と励ましてくれて、小遣いをくれたりした」と奨励会当時を述懐している<ref name="hyaku4"/>。 |
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* 若い頃武術の鍛錬もしており(明治時代の将棋の対局は、時に命懸けの真剣勝負となることもあったため)、無念流の使い手であった<ref name="hyaku4"/>。名のある師匠についたことはないが、将棋の修行のために全国を遊歴した際も、それぞれの地で剣術修行をしたという<ref |
* 若い頃武術の鍛錬もしており(明治時代の将棋の対局は、時に命懸けの真剣勝負となることもあったため)、無念流の使い手であった<ref name="hyaku4"/>。名のある師匠についたことはないが、将棋の修行のために全国を遊歴した際も、それぞれの地で剣術修行をしたという<ref>[[越智信義]]編『将棋随筆名作集』(三一書房)収録の「関根名人昔語り」([[菅谷北斗星]]著)</ref>。 |
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* また、やはり若い頃、浅草西鳥越町にあった[[中村座]]に、たまたまの役者不足のために出演したことがきっかけで芝居に熱中し、将棋修行での地方遊歴先で、女形専門(関根は、掌が小さかったため女形に向いていた)で役者をつとめた<ref |
* また、やはり若い頃、浅草西鳥越町にあった[[中村座]]に、たまたまの役者不足のために出演したことがきっかけで芝居に熱中し、将棋修行での地方遊歴先で、女形専門(関根は、掌が小さかったため女形に向いていた)で役者をつとめた<ref>[[越智信義]]編『将棋随筆名作集』(三一書房)収録の「関根名人昔語り」([[菅谷北斗星]]著)</ref>。また[[博徒]]の修行もし、[[清水次郎長]]の世話になったこともあるという<ref>[[越智信義]]編『将棋随筆名作集』(三一書房)収録の「関根名人昔語り」([[菅谷北斗星]]著)</ref>。 |
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* [[1904年]](明治37年)[[12月14日]]の[[萬朝報]]紙上に、﹁新題旅順陥落詰め﹂と題する265手詰の詰将棋を発表したが、この作品は[[大橋宗桂 (9代)|九代大橋宗桂]]の﹁[[献上図式|将棋舞玉]]([[1786年]])﹂第51番の盗作であった<ref> [[二上達也]]、福田稔﹃名作詰将棋﹄有紀書房、1987年3月、ISBN 4-638-07228-3 p158 </ref>。また同誌上に[[日露戦争]]戦勝記念として発表した曲詰め﹁艦影﹂も添田宗太夫の﹁将棋秘曲集﹂第100番﹁船﹂の盗作だった。
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* [[1904年]](明治37年)[[12月14日]]の[[萬朝報]]紙上に、﹁新題旅順陥落詰め﹂と題する265手詰の詰将棋を発表したが、この作品は[[大橋宗桂 (9代)|九代大橋宗桂]]の﹁[[献上図式|将棋舞玉]]([[1786年]])﹂第51番の盗作であった<ref> [[二上達也]]、福田稔﹃名作詰将棋﹄有紀書房、1987年3月、ISBN 4-638-07228-3 p158 </ref>。また同誌上に[[日露戦争]]戦勝記念として発表した曲詰め﹁艦影﹂も添田宗太夫の﹁将棋秘曲集﹂第100番﹁船﹂の盗作だった。
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* 囲碁の名人だった[[本因坊秀哉]]と非常に仲がよく、親友関係だった。 |
* 囲碁の名人だった[[本因坊秀哉]]と非常に仲がよく、親友関係だった。 |