「須見新一郎」を編集中
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8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、[[辻政信]][[参謀]]の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった<ref>﹃ノモンハン事件の虚像と実像﹄197頁。</ref>。
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8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、[[辻政信]][[参謀]]の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった<ref>﹃ノモンハン事件の虚像と実像﹄197頁。</ref>。
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ノモンハン事件について、戦後このように述べている。﹁︵小松原師団長は︶あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。﹂﹁でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた[[荻洲立兵]]中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。﹂﹁責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。﹂<ref>﹃証言私の昭和史②戦争への道﹄文春文庫 |
ノモンハン事件について、戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。」「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた[[荻洲立兵]]中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。」<ref>『証言私の昭和史 ②戦争への道』文春文庫[[1089年]]443p 447p</ref> |
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戦後長野県上山田温泉三楽荘の主人となり、[[司馬遼太郎]]の取材を受けているが、その後、司馬が[[大本営]][[陸軍]][[参謀]]だった[[瀬島龍三]]と対談したことを知ると、それまでの取材内容の使用及び今後の取材を拒否した<ref>﹃ノモンハン事件の虚像と実像﹄39頁。</ref>。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449981 昭和9年9月1日調﹁陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹂]︵[[国立国会図書館デジタルコレクション]]︶によると、須見は[[1934年|1934年︵昭和9年︶]]、[[富山市]]に駐屯する[[歩兵第35連隊]]附[[中佐]]︵p.82︶、瀬島は歩兵第35連隊附[[少尉]]︵p.324︶として同じ連隊で勤務をしていた。
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戦後長野県上山田温泉三楽荘の主人となり、[[司馬遼太郎]]の取材を受けているが、その後、司馬が[[大本営]][[陸軍]][[参謀]]だった[[瀬島龍三]]と対談したことを知ると、それまでの取材内容の使用及び今後の取材を拒否した<ref>﹃ノモンハン事件の虚像と実像﹄39頁。</ref>。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449981 昭和9年9月1日調﹁陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹂]︵[[国立国会図書館デジタルコレクション]]︶によると、須見は[[1934年|1934年︵昭和9年︶]]、[[富山市]]に駐屯する[[歩兵第35連隊]]附[[中佐]]︵p.82︶、瀬島は歩兵第35連隊附[[少尉]]︵p.324︶として同じ連隊で勤務をしていた。
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