黄帝紀元
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黄帝紀元︵こうていきげん︶とは、中国の清末、革命派が用いた紀年法。中国人の先祖とされる伝説上の帝王黄帝にもとづく。
光緒29年︵1903年︶、劉師培は﹃国民日日報﹄に﹁黄帝紀年論﹂を発表し、年号制に反対し、同時に康有為ら変法派が主張した孔子紀元にも反対した。劉師培は黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、その年を4614年とした。
しかし、生卒年は文献上で一致する年がないため、宋教仁は黄帝即位の年とされる癸亥の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。中国同盟会の機関誌﹃民報﹄を始めとして革命派の雑誌はこれを採用した。
武昌蜂起が起こり、湖北軍政府が成立すると黄帝紀元が用いられたが、共和政府樹立の議論のなかで黄帝紀元は民主共和の精神にそぐわないとの意見が出された。
孫文が中華民国臨時大総統の地位に就くと、黄帝紀元4609年11月13日︵1912年1月1日︶を中華民国元年元旦とすると通達し、黄帝紀元の使用は停止された。