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宣撫官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宣撫工作から転送)
新しく内地から来た男子宣撫班員が、盧溝橋近くの一文字山の戦跡で盧溝橋事件の説明を聞いている。武器は持っていない。
支那事変画報第25集(毎日新聞社、昭和13年4月21日発行)


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教育文化促進工作[編集]

北京の日本語学校。婦女宣撫班員が大学の教室を使って教えている。
支那事変画報第25集(毎日新聞社、昭和13年(1938年)4月21日発行)
  • 使われていた抗日教科書は廃棄され、新しい教科書が配られ、また日本国・満州国・中国の親和精神の必要も説かれた。一方、民衆にも日本や日本語について学ぼうとする意識が高まり、それに応えて日本語の教科書や新しい音楽や歌が民衆に与えられた。このような活動により北京、天津方面をはじめ済南などにも日本語学校がいくつも生まれ、小さな街角にも日本語の本を売る露天が現れた。[1]婦女宣撫員は家庭にある女性に対して働きかけ、手芸を教えて家庭の収入につなげようとする活動も行われた。
  • 有害なデマに民衆が怯えることも宣撫班が対応しなくてはならないことだった。デマの影響を排除して民衆を指導するために演説、チラシやポスターに加えて新聞紙の発行も行われた。
  • 地域の安定を示し、より一層の信頼関係を構築するために文化活動としての催し物も開催された。演芸会はもとより運動会[3]や老人達のための敬老会も行われた[1]また宣撫官によらない映画、ラジオ、演劇による宣撫工作も行われた。
中国山西省運城における日華合同運動会 - 支那事変記念写真帖(昭和15年(1940年)1月発行)

救国少年隊[編集]

現地の宣撫班はいずれも救国少年隊を組織し、十歳前後から十五、六歳までの少年達が入隊した。救国少年隊の指導眼目は「我等は新中国建設の大使命を担う」という自覚から、「献身的に日本と協力し、中国を毒し、中国を塗炭の苦しみに陥らせた国民党・共産党両党を撲滅して国を救う」という意志の養成が求められた。 隊長は人望と学識のある優秀な中国青年あるいは学校教員等から選ばれ、訓練は学科と実地からなり、学科は精神教育・日本語教育に重点が置かれ、実科は簡単なチラシ貼りから敵側宣伝物の清掃、各愛護村の連絡、情報収集、鉄道の巡察などが実践された。

婦女宣撫隊[編集]

中国の家庭に働きかけるために住民の主婦や娘達によって婦女宣撫隊が組織された。その隊長は県長や県の高級官吏の夫人が当たった。隊員は住民に対しての良き接点となり、戦禍の後の雰囲気を改善する効果が大きかった。また日本国・満州国・中国の提携、婦人への知識と教養の提供、婦人の生活向上、副業の奨励などに関する広報活動と実務も行った。

北京の婦女宣撫(班)弁公処。宣撫班員には日本人、中国人、満州人、チベット人、モンゴル人がいた。
支那事変画報第25集(毎日新聞社、昭和13年(1938年)4月21日発行)
婦女宣撫班からあわがゆの配給を受けて喜んでいる老婦連 (北京)
支那事変画報第25集(毎日新聞社、昭和13年(1938年)4月21日発行)
困窮している児童の散髪も宣撫班員で引受ける (北京)
支那事変画報第25集(毎日新聞社、昭和13年(1938年)4月21日発行)
手をとってくすだま製造を教える宣撫班員 (北京)
支那事変画報第38集(毎日新聞社、昭和13年(1938年)9月1日発行)
北京の婦女宣撫班による授産場 (技能訓練場) の様子
支那事変画報第38集(毎日新聞社、昭和13年(1938年)9月1日発行)
中山県城、ポルトガル教会内で、南支方面軍報道部の女子宣撫員は同胞のために身振り豊かに興味深い日中親善の演説をつづけている。
支那事変画報35集(朝日新聞社、昭和15年(1940年)8月30日発行)

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(二)^ 1939

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