和碩恪純公主
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和碩温恪公主 | |
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続柄 | 崇徳帝第14皇女 |
称号 | 和碩恪純長公主 |
身位 | 和碩公主・公主→和碩公主・長公主 |
出生 |
崇徳6年12月7日(1642年1月7日) |
死去 |
康熙43年12月(1705年) |
配偶者 | 呉応熊 |
子女 |
呉世霖 呉世璠 |
父親 | 崇徳帝 |
母親 | 奇塁氏 |
和碩恪純公主︵わせきかくじゅんこうしゅ、1642年1月7日 - 1705年︶は、清の太宗ホンタイジの十四女。母は庶妃︵側女︶のキレイ︵奇塁︶氏︵Kirei hala︶。
生涯[編集]
崇徳6年12月7日︵1642年1月7日︶に生まれた。初め、和碩公主に封ぜられた。順治9年︵1653年︶、昭聖皇太后により、呉三桂の息子の呉応熊と政略結婚した。順治16年12月︵西暦で1661年︶、和碩建寧長公主に進封された。その後、和碩恪純長公主に改められた。 康熙12年︵1673年︶12月、呉三桂が反乱を起こすと呉応熊は逮捕された。康熙14年︵1675年︶4月13日、呉応熊と長男の呉世霖は処刑され、他の幼児は死刑を免じられた。その後、甥の康熙帝は公主に﹁謀叛人のために疲れたろう﹂と詔して慰めた。次男の呉世璠は康熙17年︵洪化元年、1678年︶に呉周の皇帝として即位したが、康熙20年︵洪化4年、1681年︶に清軍に昆明が包囲される中、自ら縊死した。 康熙43年12月︵西暦で1705年︶、公主は薨去した。男子[編集]
参考文献[編集]
- 『清史稿』
- 『清聖祖実録』