鈴木主水
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(鈴木重則から転送)
鈴木 主水︵すずき もんど︶は、信濃国上田城主・真田昌幸の家臣として、上野国 名胡桃城の城将を務めたとされる人物。真田信之︵信濃国上田藩初代藩主︶の家臣であった鈴木忠重︵右近︶は、鈴木主水の子とされる[1]。
﹃加沢記﹄などの軍記物には下記のように記されている。
●名胡桃城︵真田昌幸 領︶の城将であった鈴木主水[注釈 1] は、天正17年︵1589年︶に猪俣邦憲︵上野国沼田城︿後北条氏 領﹀の城将[3]。真田昌幸と敵対していた後北条氏の、上野国方面指揮官である北条氏邦の家老[3]︶によって名胡桃城を奪われた︵名胡桃城事件と呼称される[4]︶[4]。
●鈴木は後北条氏に偽って降伏し、隙を狙って猪俣を殺害しようと企み、沼田城下の正覚寺︵群馬県沼田市に現存[1]︶に逗留したが、企図が発覚して同寺で自決した[4]。
名胡桃城事件は、翌年の天正18年︵1590年︶の豊臣秀吉による小田原征伐、後北条氏の滅亡の直接の原因となった[3]。しかし同事件の経過を具体的に伝える一次史料は存在せず、詳細は不明である[4]。
そして﹁鈴木主水﹂に言及した一次史料が存在しないため、﹁鈴木主水﹂なる人物の詳細、﹁鈴木主水﹂なる人物の実在は不明である[1]。﹁鈴木主水﹂が自決したとされる正覚寺には﹁鈴木主水の墓﹂と伝わる墓が存在するが、別人の墓ではないかという指摘を受け、かつて設置されていた案内板は撤去されている[1]。