日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ウィーン(オーストリア)
うぃーん
Wien
市街
生活・文化
産業
歴史
古くから東西交通路であったウィーンはバルト海とアドリア海を結ぶ「琥珀の道」にもあたり、諸民族ことに中世からはドイツ人、スラブ人、マジャール人の接触点であった。
[進藤牧郎]
古代・中世
紀元前にケルト人の小村であったが、1世紀にローマ軍団の駐屯地となり、マルコマンニ戦争(166~180年、南下したゲルマン系のマルコマンニ人などにローマが反撃を加えた戦争)末期の180年、マルクス・アウレリウス帝がここに陣没する。3世紀にはローマの自治都市であったが、民族移動期に滅び、5世紀にはアッティラ率いるフン人やイタリアに入る前の東ゴート人もこのあたりに国をつくっている。8世紀にはウィーン最古の聖ルプレヒト教会が、またカール大帝の創設といわれる聖ペテル教会も建設される。9世紀に始まるドイツ東方植民の南の軸線にあたるウィーンは、オストマルクの拠点となり、バーベンベルク家のもとで13世紀には叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を生んだという宮廷騎士文化も開花した。さらに十字軍の通路にもあたり、皇帝フリードリヒ2世によって一時帝国都市ともなって繁栄する。しかしベーメン(ボヘミア)王オタカル2世が南下して1251年に占領して以来、ウィーンは領邦君主に従属する都市となった。
[進藤牧郎]
ハプスブルク家の支配
大空位時代のあと、皇帝に選ばれたハプスブルク家のルドルフは、1276年オタカルを追ってウィーンに入る。13世紀末からウィーン川とのちのドナウ運河に挟まれた段丘、現在の市内区には、古い教会が数多く建設され、サン・シュテファン大聖堂はゴシック様式に再建され、アウグスチン教会も創建された。しかし皇帝位をめぐって、ウィッテルスバハ家、ルクセンブルク家など諸王家と争うハプスブルク家のもとで、ウィーンも苦難の道を歩み、15世紀後半にはベーメンのフス派と戦うハンガリー王マーチャーシュの長い占領を受ける。ハプスブルク家は結婚政策によりスペインの遺産を継承し、カール5世のもとで世界帝国を実現した。しかし宗教改革とそれに続く争乱の時代に、新教派の台頭ばかりでなく、相続によるスペイン・オーストリア両統分立、対外的にはフランスとトルコの脅威により、ウィーンは困難に直面する。オーストリア家はベーメンとハンガリーの王位を継いだが、1529年ウィーンはトルコ軍に包囲される。1619年にはウィーンの新教徒と結んだトルン伯マチアスの、また三十年戦争では1640年スウェーデン軍の攻撃を受け、1683年にはふたたびトルコ軍に包囲される。皇帝軍はウィーン北郊で勝利し、反撃に転じてからはようやくハンガリー全土を確保できた。スペインを背景に反宗教改革を進めるオーストリア・ハプスブルク家のもとで、ウィーンはバロック文化を開花させる。現在首相官邸となっている王宮や宮廷貴族たちの宮殿が建てられ、それは15、16世紀に改築された大城壁を越えて広がり、18世紀に入ってさらに小城壁もつくられて市外区が形成される。ここに広大なオイゲン公のベルベデーレ宮、また南西郊外にシェーンブルン宮も完成する。1740年に全家領を相続したマリア・テレジアは、オーストリア継承戦争、七年戦争でシュレージエンを奪われ、プロイセンの台頭を許したが、国内改革に努め、ヨーゼフ2世とともに啓蒙(けいもう)絶対主義による近代化を進める。音楽を愛好した君主たちのもとで、ウィーンは音楽の都となり、18世紀末には古典派の全盛期を迎えた。
[進藤牧郎]
ウィーン会議以後
フランス革命とナポレオン戦争が終わって、1814~15年のウィーン会議にはヨーロッパの君主たちが集まり、華やかな国際的舞台となった。復古主義と正統主義によるメッテルニヒの反動体制、厳しい検閲と自由の抑圧にもかかわらず、ウィーン繁栄のなかで正直で陽気な小市民たちは生活を楽しみ、カフェやホイリゲ(酒屋)も増え、このビーダーマイアー文化(復古時代の芸術様式)のなかにシューベルトの歌曲やワルツも生まれる。農奴制が廃止された農村からは職を求めてウィーンに人口が集まり、1840年には35万を超え、市の外区は無計画な密集地帯となった。周辺に工場も増え、移動を続ける人々は小城壁の外側にも蝟集(いしゅう)する。1848年フランスの二月革命はウィーンに波及し、小市民、学生、労働者に流民も加わって三月革命となる。メッテルニヒは失脚し、憲法も発布される。しかし10月、ハンガリー革命の弾圧に反対して再度蜂起(ほうき)した市民の抵抗も踏みにじられ、反革命が勝利する。12月、皇帝フランツ・ヨーゼフが即位し、その長い治世にこの美しい古都も資本主義の波に覆われ、繁栄と矛盾を露呈していく。1857年皇帝の布告によって大城壁が取り払われてリング(環状道路)が生まれ、これに沿ってネオ・ルネサンスの建物が建ち、その間に美しい公園が配置され、音楽の巨匠たちの記念像が建てられる。今日の合唱団、管弦楽団なども数多く生まれ、ブラームスやヨハン・シュトラウスのワルツ、オペレッタの黄金時代を迎える。急増したウィーンの人口は1910年には200万を超えるが、政治的には民族問題に帝国は苦悩する。イタリア統一戦争、プロイセン・オーストリア戦争に敗れ、ハンガリーの独立を認めて二重王国に再編したが、ドイツ統一からも排除され、1879年のドイツ・オーストリア同盟はドイツ帝国への従属の道ともなった。オーストリア・ドイツ人の指導権が失われていくなかで、労働者運動も激化するが、社会民主党も民族問題の克服と帝国主義段階での対応に苦悩する。新装なったウィーン大学では伝統的な医学をはじめ、メンガーの経済学、ケルゼンの法学、フロイトの精神分析学など、歴史主義や民族主義を超えようとする個人主義的な新しい学問が生まれる。文化の香り高い産業が展開しても、後進資本主義国家としてのオーストリア・ハンガリー二重王国の矛盾は大きく、サライエボの銃声に始まる第一次世界大戦となる。
[進藤牧郎]
20世紀の二つの大戦とその後
第一次世界大戦の敗戦に伴うハプスブルク帝国の解体によって東・中欧を失ったオーストリアは、ドイツとの合邦をも拒まれ、経済的、政治的危機は深刻であった。ウィーンには下層市民や失業者のための救貧施設も数多く設けられたが、労働運動の盛り上がりは1927年に至って労働者の蜂起にまで高まる。1929年に始まる世界恐慌は、反ボリシェビキ、反ナチスのキリスト教社会党に政権を与え、ドルフースの独裁を生み、1934年には社会民主党をも非合法化する。しかしオーストリアのナチスは同年ドルフースを王宮内の首相官邸で暗殺し、ヒトラーは1938年ドイツ・オーストリア合邦を強行して翌1939年には第二次世界大戦に突入する。大戦末期、ウィーンは1週間にわたるソ連軍の攻囲のあと、1945年4月ナチス・ドイツから解放され、社会民主党のカール・レンナーを大統領とする新生オーストリアの首都となった。米英仏ソの4国管理のもとにあったが、朝鮮戦争に直面して世界平和のために原子爆弾戦争準備反対を訴えるウィーン・アピールが採択され、全世界に約7億の署名を集めた。米ソ雪どけのなかで、1955年5月ようやく独立を回復するとともに、ベルベデーレ宮における講和条約の調印は、永世中立の世界への公的宣言となった。同年10月、中立は憲法に織り込まれ、12月には国連にも加盟した。
こうしてウィーンは第二次世界大戦後の世界にも平和のための舞台を提供することとなり、1961年にはケネディ‐フルシチョフ会談の舞台となって、これがキューバ危機回避につながった。長い歴史を貫いて、東西二つの世界、さらには南北の対立する世界を橋渡しする役割を果たしてきたウィーンは、これからも世界の平和をつくりだす基地となるであろう。
[進藤牧郎]
『坂口豊著『ウィーンと東アルプス』(1973・古今書院)』▽『良知力著『向う岸からの世界史』(1978・未来社)』▽『ショースキー著、安井琢磨訳『世紀末ウィーン』(1983・岩波書店)』