翻訳|Alps
アルプスは中生代から新生代第三紀にかけてのアルプス造山運動によってつくられた地質構造をもち、山脈を構成する岩石は山脈の走る方向にほぼ平行する明瞭(めいりょう)な帯状分布を示す。それらは、北側(または西側)より南側(または東側)に向かって、外帯、中央帯、内帯に区分され、西部アルプスから中部アルプスにかけては外帯と中央帯が、東部アルプスでは内帯が広く露出する。全体として南側(東側)の地塊が北側(西側)に向かって大規模に衝上(しょうじょう)した複雑な褶曲(しゅうきょく)構造をもっており、北側(西側)では、南側(東側)から数十キロメートルにもわたってほぼ水平に移動してきた地層が、本来はそれより新しい地層の上にのしあがっている。これは、かつての地中海の海底に次々と堆積(たいせき)した地向斜堆積物が、北上してきたアフリカ大陸のプレートと北側にあるユーラシア大陸のプレートとの間に挟まれて圧縮され、巨大な力で北(または西)へ押し上げられたことを示すものと考えられている。北側(西側)に凸面を向けたアルプスの外形も、こうした押し上げを裏づけるものである。山脈のもっとも高い部分(モンブラン山群、ペルブー山群、ベルナー・アルプスの一部など)にはアルプスの著しい隆起によって、アルプスの基盤をなすヘルシニア(バリスカン)造山期の花崗岩(かこうがん)や片麻岩(へんまがん)が露出するが、そのほかは、褶曲・衝上構造をもつ石灰岩、結晶片岩などの堆積岩や変成岩が山地をつくっている。
[小野有五]
アルプスが急激に隆起して、現在みるような平均高度2500メートル程度の山脈となったのは第三紀末ごろと考えられており、第四紀に入ると氷期にはアルプス全体が氷河に覆われ、その侵食を受けた。氷河は谷を流下して山麓(さんろく)にまで及び、ミュンヘンやリヨン、コモ湖などの周辺で山麓氷河をつくっていた。アルプスの地形はその地質構造をよく反映しており、山脈に平行した細長い谷(縦谷)は、帯状に分布する侵食に弱い岩石が、氷河によって選択的に削られて生じた谷であり、山脈を横切る谷(横谷)は、山脈を横断するような断層や断裂の方向に沿う侵食によるものである。
[小野有五]
中部アルプスに入ると、アルプスはその向きを東西方向に変える。ほぼ北東―南西に延びるライン川とローヌ川の縦谷を挟んで、北側には外帯(ヘルベチア帯)のベルナー・オーバーラント山群(ベルナー・アルプス)とグラリス・アルプス(グラナー・アルプス)、南側には中央帯(ペニン帯)のワリス・アルプス(ペニン・アルプス)とテッシン・アルプス(レポンティエンヌ・アルプス)、アドゥラ・アルプスが連なる。
ベルナー・オーバーラント山群はスイス平原にもっとも近く、いきなり4000メートル級の山々がそびえ立っているために古くから開けた。北麓のグリンデルワルトは有数の観光地であり、ユングフラウ山(4158メートル)の肩(ヨッホ)まで登山電車が通じている。主峰はフィンスターアールホルン山(4274メートル)で、北壁で名高いアイガー山(3970メートル)、シュレックホルン山(4078メートル)、ウェッターホルン山(3701メートル)など多くの名山があり、またアルプス最大のアレッチ氷河もここにある。グラリス・アルプスはベルナー・オーバーラント山群の東の延長で、テディ山(3614メートル)を主峰とするほぼ2000メートル級の山地である。ローヌ川の縦谷の南側に連なるワリス・アルプスには、西からグラン・コンバン山(4314メートル)、ダン・ブランシュ山(4357メートル)、マッターホルン山(4478メートル)、ワイスホルン山(4505メートル)、最高峰のモンテ・ローザ(4634メートル)など4000メートル級の高峰がずらりと並び、西部アルプスの中心をなしている。マッターホルン北麓のツェルマットは有名な観光地で、ゴルナー氷河への登山電車も通じている。モンテ・ローザは中央帯の花崗岩類からなるが、マッターホルンやダン・ブランシュ周辺は、内帯から北へ衝上してきた結晶片岩などの根無し山塊(クリッペ)である。
ワリス・アルプスの東の延長は3000メートル級の山々からなるテッシン・アルプスで、フォーダー・ライン川の谷に沿うアドゥラ山群に連なっている。アドゥラ山群の主峰ラインワルトホルン山(3402メートル)はライン川の水源の山である。シュプリューゲン峠(2113メートル)から東の中部アルプス(グラウビュンデン・アルプス)は、地質的にはすでに東部アルプスの性格をもち、山容もまた、豊かな氷河をもつ中部アルプスの山々とはやや異なってくる。しかしコモ湖からイン川の上流、エンガディンの谷へ連なる縦谷の南側に連なるベルニーナ・アルプス(レーティック・アルプス)は、主峰ピッツ・ベルニーナ山(4049メートル)を抱き、氷河も多い。北麓のサン・モリッツは有名なスキー場であり、また付近はアルプスを描いた画家セガンティーニのいた所でもある。エンガディンの谷の北側では、レーティコン山群とシルブレッタ山群がほぼ3000メートル内外の峰々を連ねてオーストリアとの国境をなしている。山麓にあるダボスはサナトリウムやスキー場で知られ、トーマス・マンの小説『魔の山』の舞台となった。
[小野有五]
東部アルプスは、ほぼオーストリア―イタリアの国境に沿って東西に延びる主として花崗岩類からなる主脈と、その南側と北側を並走する南北の石灰岩アルプスの三つの山列からなる。主脈は西から、イタリア領内にあるオルトレス・アルプス(主峰はオルトレス山、3899メートル)、エッツタール・アルプス(主峰はウィルトシュピッツェ山、3774メートル)、シュトゥバイ・アルプス(主峰はツッカーヒュットル山、3511メートル)と続き、ブレンナー峠(1370メートル)の東でホーエ・タウエルン山脈に連なる。ホーエ・タウエルン山脈は、西からチラータール・アルプス、フェネディガー山群、グロックナー山群、ゾンブリック山群など、3500メートルを超える山々が東西に連なり、東アルプスの最高峰グロースグロックナー山(3798メートル)もここにある。タウエルン峠の東では山地高度が2900メートル以下となり、ミュール川の縦谷によって山脈は北側のニーデレ・タウエルン山脈と、南側のケルントナー・アルプス、シタイリッシェ・アルプスに分けられる。
北部石灰岩アルプスはオーストリア西部のアルゴイ・アルプスとレヒタール・アルプスに始まり、イン川の北側に延びる北チロール石灰岩アルプスと、ドイツ南部にまたがるバイエルン・アルプスに連なる。バイエルン・アルプスのツークシュピッツェ山(2963メートル)はドイツ領内の最高峰である。イン川の東ではホッホケーニッヒ山(2938メートル)、ダッハシュタイン山(2996メートル)などをもつザルツブルク・アルプスとなり、さらに東側で高度を減じるとオーストリア石灰岩アルプスとよばれ、最後はウィーン西郊の丘陵(ウィーンの森)で終わっている。
南部石灰岩アルプスはイタリア側にある。それはコモ湖の東、ベルニーナ・アルプスの南に広がる2000メートル級のベルガマスク・アルプスに始まり、ブレンナー峠に続くアディジェ川の谷の東側でドロミーティ山地に連なる。ただし、ベルガマスク・アルプスとアディジェ川の間にあるアダメルロ山群(主峰アダメルロ山、3554メートル)は新期の花崗岩類からなる山地で、南部石灰岩アルプスよりもやや高い。ドロミーティ山地は南部石灰岩アルプスの中心で、最高峰マルモラーダ山(3342メートル)をはじめ、ドロマイト(苦灰岩(くかいがん))の侵食による垂直な岩壁を巡らした奇怪な岩峰が連なっている。その東方への延長はカーニック・アルプスで、さらにスロベニア北西端のカラワンケン山脈とユーリッシェ・アルプスへと続いている。東部アルプスの西半(東・西チロール州)と、現在はイタリア領になったドロミーティ山地周辺(かつての南チロール州)はチロール地方とよばれ、世界的な観光地、スキー場となっている。
[小野有五]
アルプスでは古くからある製紙業や繊維業、小規模ながら産出する石炭、無煙炭、鉄を利用した製鉄業、製錬業などが行われてきたが、近年では水力発電と交通機関の発展により、電気化学工業やボーキサイトの製錬業などが盛んになった。フランスではグルノーブル周辺やイゼール川の谷、スイスではワリス、アール、テッシンの谷、イタリアではアオスタの谷やボルツァーノ周辺などがその中心である。アルプスの水力発電は、起伏が大きくまた河川が氷河によって涵養(かんよう)されるために流量の変化が少ないなどの利点をもっており、各地に巨大なダムがつくられている。繊維業はアルプス南麓(なんろく)のトリノとミラノ、および西麓のリヨンが中心である。
[小野有五]
紀元前218年カルタゴの勇将ハンニバルが2万の歩兵、6000の騎兵、38頭のゾウを率い、アルプスを越えてローマ帝国に攻め入っている。しかし、一般には長い間アルプスは魔神のすみかとして恐れられ、登山の対象となったのは自然と人間の再発見がうたわれたルネサンス期に入ってからである。1388年アルプスの万年雪を踏破した記録に始まり、1492年にはドフィーネ・アルプスのモンテギュイーユがアントアーヌ・ド・ウィルらによって登頂されており、このときザイルが用いられたという。さらに1511年にはレオナルド・ダ・ビンチがモンテ・ボーに登っている。
[徳久球雄]
アルプスの近代登山は、1786年スイスの学者オーラス・ベネディクト・ド・ソシュールが、シャモニーのミッシェル・パッカールMichel-Gabriel Paccard(1757―1827)とジャック・パルマーJacques Balmat(1762―1834)の2人にモンブランを初登頂させ、翌1887年自らも第2登をしたことに始まる。科学調査や狩猟による登山ではなく、登山そのものを目的とした近代スポーツ登山はここに端を発した。1800年グロースグロックナー山が、1811年にはユングフラウ山が登頂され、やがて1854~1865年にわたるアルプス登山の黄金期を迎えて、アルプスの未踏峰が次々に征服された。ウィルスAlfred Wills(1828―1912)のウェッターホルン山(1854)、チャールス・バリントンCharles Barrington(1834―1901)のアイガー山(1858)、ハーディJohn Frederick Hardy(1826―1888)らのリスカム山登頂(1861)などイギリス登山家の活躍が注目された。1857年、世界最初の山岳会として英国山岳会が発足、続いてスイス、ドイツなどの山岳会が結成されていく。しかし、さしものアルプス黄金期も1865年のE・ウィンパーらによるマッターホルン山初登頂を最後に幕切れを迎えた。一行はカレルJean Antoine Carrel(1829―1890)らと先陣を争いながら9回目の挑戦でようやく登頂に成功するが、下山の途中スリップによるザイル切断のため7人のパーティー中4人が遭難死。このため登山が社会問題視され、一般の登山熱が一時期冷却した。
[徳久球雄]
日本における近代登山の展開はアルプス登山によって触発されたもので、1921年(大正10)槇有恒(まきありつね)がアイガー東山稜初登攀成功後、近代登山技術や装備が日本に伝えられた。さらに7年後の1928年(昭和3)、浦松佐美太郎(うらまつさみたろう)(1901―1981)のウェッターホルン西山稜初登攀がある。そのほか松方三郎らの活躍も見逃せない。第二次世界大戦後も多くの日本登山家がアルプスで登山技術を磨き、世界の登山界に活躍している。
[徳久球雄]
『風見武秀著『カラー・ヨーロッパアルプス』(1971・山と渓谷社)』▽『佐貫亦男著『佐貫亦男のアルプ日記』(1973・山と渓谷社)』▽『阪口豊著『ウィーンと東アルプス』(1973・古今書院)』▽『大場達之著『ヨーロッパの高山植物』(1973・学習研究社)』▽『ガストン・レビュファ著、近藤等訳『モンブラン山群・特選100コース』(1974・山と渓谷社)』▽『G・グラエルトゥ著、佐々木博他訳『アルプス――自然と文化』(1980・二宮書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...
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