日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ映画」の意味・わかりやすい解説
ドイツ映画
どいつえいが
草創期
ワイマール共和国時代
第三帝国時代
旧東ドイツ映画
旧西ドイツ映画
ニュー・ジャーマン・シネマ
統一後の動向
統一後のドイツでは、亀裂を孕(はら)んだ複雑な社会状況を万華鏡的に照射した映画が現れた。
[平井 正]
1990年代前半
ヨゼフ・フィルスマイヤーJoseph Vilsmaier(1939―2020)は『スターリングラード』(1993)で多く論議をよんだ。アハテンブッシュは『チベットへ』(1993)で、ドイツという場を適確に表している。統一後のドイツ映画でもっとも目だつ現象は、女性監督のフェミニズム映画による「別種の視点」の提起であるが、トロッタは、ドイツ分断というテーマに取り組んだ『約束』(1994)で物議を醸した。
1994年の第44回ベルリン国際映画祭では、ヤン・シュッテJan Schütte(1957― )のドイツ・ポーランド合作映画『さよなら、アメリカ』(1994)が上映されたが、それは故郷を訪れたアメリカ在住のポーランド人がドイツに連行される事件を扱った作品だった。同年には、レオ・ヒーマーLeo Hiemer(1954― )が『レニ』(1994)によって、アウシュウィッツへ連行されて殺される少女の物語という、時代色濃厚な作品を世に問うた。同じ年に、3人の傑出した映画監督によって「X・フィルム・クリエイティブ・プール」という、独立映画製作会社が設立され、トム・ティクウァTom Tykwer(1965― )の『ラン・ローラ・ラン』(1998)などの、数々の傑作を生み出すことになった。
1995年には、ロムアルト・カルマーカーRomuald Karmakar(1965― )が『殺し屋』(1995)で、1924年に20人以上の若者が殺され世間を震撼(しんかん)させた猟奇殺人事件を映像化した。ベンダースは『リスボン物語』(1995)で、失踪(しっそう)した友人の映画監督の消息を求めてリスボンの町に来た音楽技師が彼と出会いふたたび映画を撮り始めるまでの姿を描いた。ルドルフ・トーメRudolf Thome(1939― )は、『秘密』(1995)で「愛の課す刑」という彼のテーマを追い続けた。
[平井 正]
1990年代後半
カロリーヌ・リンクCaroline Link(1964― )の『ビヨンド・ザ・サイレンス』(1996)は、聴覚障害者の両親をもつ少女の成長を描き、日本でも大きな反響をよんだ。第46回ベルリン国際映画祭で上映されたダニー・レビーDani Levy(1957― )の『サイレント・ナイト』(1996)は、パリとベルリンに別れて住む男女が聖夜に、ただ一度の奇怪なあいびきをする話だった。カーチャ・フォン・ガルニエKatja von Garnier(1966― )の『バンディッツ』(1997)は、服役中の4人の女囚が巻き起こす、破天荒なエキサイティング・ムービーで、ロックミュージックを背景に友情と生と死が交錯する作品だった。トーマス・ヤーンThomas Jahn(1965― )の『ノッキン・オン・ザ・ヘブンズ・ドア(天国の扉)』(1997)は、脳腫瘍(しゅよう)と末期の骨髄がんで死期の迫った2人の重症患者が、迫る死期を前に、海を見るために病院を抜け出し、高級車「メルセデス・ベンツ230SL」を盗んで海を目ざすが、車はギャングの親分のもので、トランクには大金が入っていたことから、大騒ぎになるというストーリーで、ドイツ版アクション・ムービーとしてヒットした。ウォルフガング・ベッカーWolfgang Becker(1954― )の『人生は建築現場』(1997)は、大都会ベルリンを背景にした今日的世相と愛を描いた物語だった。フィルスマイヤーの『コメディアン・ハーモニスツ』(1997)は、1920年代のベルリンで活躍した伝説的なコーラスグループのメンバー6人のうちの3人が、ユダヤ人だっため、ナチの政権獲得で、最後の公演を盛況裡(り)に終えた後、「さようなら」を繰り返して、ドイツを去っていくというストーリーで、グループが時代の変化によって引き裂かれ解散するまでの過程が描かれている。
ステファン・ルツォウィツキーStefan Ruzowitzky(1961― )の『七分の一農民』(1998)は、両大戦間、権力に翻弄(ほんろう)される農民の姿を描いた、新しい性質の「郷土映画」だった。ベルリン国際映画祭で上映された、トーマス・ハイゼThomas Heise(1955― )の『バルシュケ』(1997)は、旧東ドイツの諜報機関「シュタージ」のためにアメリカでスパイとして働いたベルトルト・バルシュケの伝記的記録映画で、ドイツ分断のトラウマを描いていた。1998年は、ドイツ史の文化的状況を体現したともいえるブレヒトの生誕100周年ということで、多くのオマージュ作品が捧げられた。ベンダースの『エンド・オブ・バイオレンス』(1997)は、暴力が人間に及ぼす作用をサスペンス映画風に描いた作品で、日本での公開にあわせて来日した彼は、新聞記者の質問に「映画は本来パワフル。暴力を主題とするのなら直接的に描くより、示唆するほうが見る側に伝わるはず。しかしハリウッドの輸出物は、暴力的テーマに集中してしまっている」と答えた。シュレンドルフの『パルメット』(1998)は、刑務所から釈放された記者ハリー・バーバーが、仕事を探して、誘拐を依頼され、手に負えないめんどうに巻き込まれる物語である。前述した「X・フィルム」グループのトム・ティクウァの『ラン・ローラ・ラン』は、大金を置き忘れてボスに殺されると訴える恋人のために、ひたすらベルリンの町中を走り回るローラの姿を描き、大ヒットした。ビビアン・ネーフェVivian Naefe(1953― )は、夫の不倫に逆上してベニスに飛んだ女性をめぐる騒動を描いた『逢(あ)いたくてヴェニス』(1998)をつくった。
1999年の第49回ベルリン国際映画祭は、史上初めてドイツ連邦共和国首相によって開幕され、「性格の異なる作品を競わせる」ことを目ざした。金熊賞を与えられたアメリカのテレンス・マリックTerrence Malick(1943― )の映画『シン・レッド・ライン』(1998)は、第二次世界大戦で日本の敗戦を決定づけた「ガダルカナルの死闘」を描いた映画で、戦争の悲惨さと不条理を訴えていた。他方、映画祭で特別上映されたカロリーヌ・リンクの『点子ちゃんとアントン』(1999)は、異なった社会層の2人の子ども、裕福な少女の点子ちゃんと貧しいアントンが、勇気ある友情をもち続け、別れた両親を反省させる物語で、心温まる作品だった。しかしディディ・ダンクウァルトDidi Danquart(1955― )の『ユダ畜生レヴィ』(1999)は、ナチが政権をとると、それまで尊敬されていたユダヤ人の家畜商人が憎しみの的になるというストーリーで、ユダヤ人に対するドイツ人のトラウマを描いた。
他方、ドーリス・デリエは、妻子に家出された二人のだめ兄弟が、日本の禅寺で瞑想(めいそう)を志すが、さまざまな問題に直面した後、落ち着いた人間になるという『MON-ZEN(もんぜん)』(1999)をつくった。「ニュー・シネマ」の旗手の一人で、巨匠の域に達したベンダースは、キューバ旅行で、大地に根ざした民俗音楽に魅せられ、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)をつくって、キューバのミュージシャンの公演を映像に定着させた。同じく「ニュー・シネマ」の旗手だったヘルツォークは、『キンスキー、我(わ)が最愛の敵』(1999)で、自分の重要な作品で主役を演じ、1991年に死去したクラウス・キンスキーKlaus Kinski(1926―1991)との愛憎定まらぬ友情の思い出を、フィルム・ドキュメントによって総括した作品につくりあげて、感銘を与えた。
1999年にはセバスティアン・シッパーSebastian Schipper(1968― )が、『ギガンティック』(1999)をつくって、生活の場をみつけられないフラストレーションから、貨物船でシンガポールへ行こうとする若者が、旅立つ前の残された短い時間を仲間と3人で、無軌道に明け暮れる姿を描いた。またレアンダー・ハウスマンLeander Haußmann(1959― )は『サン・アレー』(1999)で、「壁崩壊」で東ドイツが西に飲み込まれていく状況のなかで、東ベルリンに住む男の子が抱く複雑な心情を描いた。
[平井 正]
2000年代前半
2000年にはベルリンの新都心「ポツダム広場」の一角に、「マレーネ・ディートリヒ広場」が完成し、彼女の遺品を中心にした「ドイツ・キネマテーク=ベルリン映画博物館Deutsche Kinemathek Museum für Film Fernsehen」が開館した。第二次世界大戦前の『嘆きの天使』(1930)以来、彼女の伝説化はエスカレートするばかりで、フィルスマイヤーは、彼女の経歴を追った作品『マレーネ』(2000)を捧げた。そして第50回ベルリン国際映画祭では、オープニングを飾ったベンダースの『ミリオンダラー・ホテル』(2000)に銀熊賞が与えられたが、アメリカで成功し、英語名の映画ばかり撮っている国際監督に対する反感は強く、激しいブーイングが浴びせられた。
ステファン・ルツォウィツキーは女性医学生パウラが見た生体解剖の悪夢を映像化した『アナトミー』(2000)をつくった。シュレンドルフは、旧東ドイツで新しいアイデンティティをみいだしたものの、ベルリンの「壁」崩壊で、自分の過去と対決しなくてはならなくなった元「赤軍派」のメンバーを扱った『終わりの後の静けさ』(2000)を世に問うた。ゲッツ・シュピールマンGötz Spielmann(1961― )は、離婚して無気力な生活をおくる男とメキシコ女性との出会いを描いた性格劇『異国の女』(2000)をつくった。ヘルツォークの『神に選ばれし無敵の男』(2001)は、1920~1930年代、社会不安と退廃でオカルト・ブームとなったベルリンで、「神秘の館」をつくって千里眼の興行を行い、世間の寵児(ちょうじ)となり、ヒトラーにも取り入ったものの、結局抹殺されたハヌッセンErik Jan Hanussen(1889―1933)を扱った作品だった。オスカー・レーラーOskar Roehler(1959― )の『アンタッチャブル』(2000)は、旧東ドイツを理想化した女性作家の生と死を描いた作品である。トルコ系のファティ・アキンFatih Akin(1973― )の『太陽に恋して』(2000)は、女性に会うため、ハンブルクからイスタンブールまで行く青年の物語だった。マティアス・グラスナーMatthias Glasner(1965― )は『CLUBファンダンゴ』(2000)で、モデルを夢みながら、ベルリンのクラブで働く女性と2人の男性がふとしたことからトラブルに巻き込まれるさまを描いたアクション・ドラマを制作した。
ローランド・ズゾ・リヒターRoland Suso Richter(1961― )の『トンネル』(2001)は、ベルリンの壁の下を145メートルも掘り、多くの東ドイツ市民の救出に成功した実話を映像化した作品だが、それを「NBC」のカメラ・チームが撮影して迫真的な回想となったことで話題をよんだ。モーリッツ・デ・ハーデルンMoritz de Hadeln(1940― )の下での最後の「ベルリン国際映画祭」は、ヨーロッパ色の作品が優勢だった。ラーズ・クラウムLars Kraume(1973― )の『コマーシャル・マン』(2001)は、若者が大ぼらを吹いて、大きな広告会社のトップに成り上がるサクセスストーリーで、大いに笑わせた。アンドレス・ファイエルAndres Veiel(1959― )の『ブラック・ボックス・ジャーマニー』(2001)は、ベルリンの壁崩壊直後、ドイツ銀行のトップ・マネージャーが赤軍の分派に殺害された事件を扱った作品だった。コニー・ウァルターConnie Walter(1962― )の『ネレ&キャプテン 壁をこえて』(2001)は、東西に分断されたベルリンで起きた現代の「ロミオとジュリエット物語」だった。カルロ・ローラCarlo Rola(1958―2016)の『バーグラーズ 最後の賭(か)け』(2001)は、1920年代のベルリンで、いつも警察の裏をかいて金庫を破る名人の兄弟が、民衆にヒーローとしてもてはやされていたものの、初めて失敗を犯して面目を失い、挽回しようと銀行の金庫破りに挑戦する物語である。カロリーヌ・リンクの『名もなきアフリカの地で』(2001)は、ナチ政権下のドイツからアフリカに逃れたユダヤ人一家の物語で、両親の苦闘と娘の変貌(へんぼう)が、アフリカを背景として印象的に描かれ、日本でも大きな感動をよんだ。オリバー・ヒルシュビーゲルOliver Hirschbiegel(1957― )の『エス』(2001)では、大学の模擬監獄実験に応募した被験者たちが模擬刑務所の看守役と囚人役に分けられ、実験が進められていくうちに実験の枠組みを超えコントロール不能になっていくというストーリーで、実際に過去行われた心理実験(現在は禁止されている)が再現されている。
アルムート・ゲットーAlmut Getto(1964― )の『魚はセックスするの?』(2002)では、夢うつつの男の子と元気な女の子が知り合い、魚はセックスするのかという疑問を抱くという物語。ハンス・ワインガルトナーHans Weingartner(1977― )の『ベルリン、僕らの革命』(2004)では、大都会ベルリンにやって来た若者が、妄想性分裂症にかかり、恋人にもちかけられた復讐(ふくしゅう)のための重役宅侵入で窮地に陥るというストーリー。日本での上映にあわせて来日した監督は、「今の若者に組織的な運動はあわない。だから個人的な革命というのを考えてみたんだ」と語った。アンドレアス・ドレーゼンAndreas Dresen(1963― )の『階段の途中で』(2002)では、大都会でわびしい生活を送る2組の夫婦のつきあいが、予期しない展開を遂げる。ディーター・コスリックDieter Kosslick(1948― )体制最初の第52回ベルリン国際映画祭は、宮崎駿(はやお)監督の『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001)に金熊賞を与え、アニメ映画の地位を承認したことで話題をよんだ。イアイン・ディルタイIain Dilthey(1971― )の『欲望』(2002)は、夫に虐げられている牧師の妻が、ある機械工に心をひかれるが、彼は恐ろしい秘密をもった男だったことがわかるというストーリーだった。
2003年には、第53回ベルリン国際映画祭が、「寛容に向かって」をテーマとして開催された。ウォルフガング・ベッカーは『グッバイ、レーニン!』(2003)を制作した。それは旧東ドイツが崩壊したことを知らずに昏睡(こんすい)状態から回復した母親に、ふたたびショックを与えないため、激変した世情を懸命に隠そうと奮闘する青年の姿を描き、日本でも大ヒットした。クリスチャン・ペツォルトChristian Petzold(1960― )の『ヴォルフスブルク』(2003)では、子どもをひき逃げされた母親が犯人を探しているうちに、当の犯人と出会い、親しくなってしまう物語。トミー・ウィガントTomy Wigand(1952― )の『飛ぶ教室』(2003)は、何度も寄宿学校から出された主人公が、有名な「トーマス教会合唱団」の寄宿学校でよい友人と仲間になり、いっしょに古い鉄道車両の中で『飛ぶ教室』という劇の台本をみつけて上演しようとするが、実はそれは、寮監のベク先生が分断時代の東ドイツで書いたものだったという物語で、原作はドイツの国民的作家エーリッヒ・ケストナーが1933年に発表した名作。またベンダースは『ソウル・オブ・マン』(2003)をつくった。
2004年の第54回ベルリン国際映画祭は、トルコ系のファティ・アキンがつくった『愛より強く』(2004)に金熊賞を与えた。ドイツ在住のトルコ人第二世代男女が、二つの文明の間で引き裂かれ、傷つき、愛し合う姿を描いた作品で、映画祭が芸術性よりアクチュアリティ(実情)を重視する傾向に向かったと評された。アヒム・フォン・ボリエスAchim von Borries(1968― )の『青い棘(とげ)』(2004)は、1920年代のベルリンで若者の暴走事件として騒がれた実話を映画化した作品で、麻薬と音楽に陶酔する若者の姿を描いている。オリバー・ヒルシュビーゲルの『ヒトラー 最期の12日間』(2004)は、1945年4月20日、ソ連軍が迫るベルリンの総統防空壕(ごう)での最後の模様を迫真的に描き、日本でも大きな反響をよんだ。主役を演じたブルーノ・ガンツBruno Ganz(1941―2019)の演技は評判となった。ベンダースは『ランド・オブ・プレンティ』(2004)を制作した。
ドイツの映画制作は活況を呈してきて、ハンス・クリスティアン・シュミットHans Christian Schmid(1965― )の『クレイジー』(2000)、クリスチャン・ペツォルトの『幻影』(2004)、ダニー・レビーの『何でもツッカー!』(2004)、ミヒャエル・クリーアMichael Klier(1943― )の『ファーラント』(2004)、ヘンドリック・ヘルツェマンHendrik Hölzemannの(1976― )『心の鼓動』(2004)、アンドレアス・ドレーゼンの『ヴィレンブロック』(2005)といった作品が制作され、日本では「ドイツ映画祭2005」で公開された。
[平井 正]