ピンポン外交(読み)ピンポンガイコウ

デジタル大辞泉 「ピンポン外交」の意味・読み・例文・類語

ピンポン‐がいこう〔‐グワイカウ〕【ピンポン外交】

 
197145()()19721979
[]2009130  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピンポン外交」の意味・わかりやすい解説

ピンポン外交
ピンポンがいこう

 
1971 194919701971419722  

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世界大百科事典(旧版)内のピンポン外交の言及

【荻村伊知朗】より

…頭脳的プレーヤーとして世界に知られ,日本卓球界の黄金時代を築き上げた。現役引退後も,71年名古屋での世界選手権の前年に訪中し,米中国交正常化につながるピンポン外交の糸口をつくりだし,91年の世界選手権ではスポーツ界で初の南北朝鮮統一チーム〈コリア〉結成に尽力するなど,スポーツを通じた国際交流に貢献した。79年から国際卓球連盟(ITTF)会長代理,87年には会長に就任し,用具のカラー化など新機軸を取り入れ卓球の発展に尽くした。…

【外交】より


1971︿

 

【卓球】より

…71年,名古屋で開催された第31回大会において中国がアメリカ選手団の招待を申し出,アメリカがこれを受諾して中国訪問が実現した。これは後の日中国交回復,米中国交回復への突破口を開くもので,〈ピンポン外交〉の名で知られている。その後も中国は世界の卓球界の主役を務め,81年の第36回大会で史上初の7種目全制覇の完全優勝を果たし,34年ぶりに地元(天津)で開いた95年の第43回大会でも2度目の完全制覇を達成した。…

【中華人民共和国】より

…52年に中華全国体育総会が成立したことで,新中国の体育活動の体制ができあがるわけだが,国際的に注目を集めるようになったのは,59年の第25回世界卓球選手権大会(西ドイツ)で男子シングルスに優勝(容国団)したあたりからである。以来,中国卓球は一貫して世界をリードする実力を示して西側世界への重要な窓口となり,71年には米中関係打開の道をつけるなどして,〈ピンポン外交〉なることばを生んだ。 文革期には,スポーツにおいても,勝利第1,技術第1の思想に反対してスポーツを革命化することが叫ばれたが,実際には軍事訓練との結合にとどまり,体育活動は低下した。…

※「ピンポン外交」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」