デジタル大辞泉
「ファショダ事件」の意味・読み・例文・類語
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ファショダ‐じけん【ファショダ事件】
(一)( ファショダはFashoda ) 一八九八年に起きたアフリカ分割をめぐるイギリスとフランスとの衝突事件。ナイル河畔、スーダン南東部のファショダ︵現コドク︶で両国軍隊が対立したが、フランス側の譲歩で、翌年イギリスのスーダン支配を協定した。
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ファショダ事件 (ファショダじけん)
Fashoda Incident
1898年,エジプト・スーダン南部ファショダで,イギリス,フランス両勢力が衝突した事件。エジプト・スーダンは,カイロからケープ植民地を結ぼうとするイギリスのアフリカ縦貫政策と,紅海沿岸のソマリランドから大西洋岸のセネガルを結ぼうとするフランスの横断政策の交差地域となった。1898年7月,コンゴを出たマルシャンJ.B.Marchand大佐︵1863-1934︶指揮下のフランス隊はナイル渓谷のファショダを占領したが,イギリスのキッチナーH.H.Kitchener将軍︵1850-1916︶はナイルをさかのぼってスーダンへ進軍,9月19日にファショダへおもむき,フランス軍の撤退を求めた。イギリス,フランス間の緊張は高まったが,外交交渉によってフランス側が譲歩して撤退し,翌99年3月成立の協定によって事件は正式に解決した。この結果,エジプト・スーダンはイギリス・エジプトの保護下におかれた。
執筆者‥義井 博
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百科事典マイペディア
「ファショダ事件」の意味・わかりやすい解説
ファショダ事件【ファショダじけん】
たフランスが衝突した事件。1898年キッチナー指揮の英軍とマルシャン指揮の仏軍がナイル河畔のファショダFashoda︵コドク︶で遭遇。両国関係は緊張したが,翌年英国がエジプトを,フランスがモロッコを勢力範囲とすることで妥協が成立した。
→関連項目ソールズベリー|モロッコ
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ファショダ事件
ふぁしょだじけん
Fashoda incident
1898年、スーダン南東部のファショダ︵現、南スーダン共和国コドクKodok︶で、イギリス、フランス両勢力が衝突した事件。19世紀末、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が激化し、イギリスはスーダンを占領、カイロとケープ・タウンを結ぶ南北縦断政策を進めた。一方、西アフリカの大半を手中にしたフランスは、アフリカ東岸のジブチへ抜ける大陸横断政策をとり、マルシャン将軍を派遣した。1898年彼はファショダに到達し、急を聞いて駆けつけたイギリス軍のキッチナー将軍と対峙(たいじ)した。イギリス軍はフランス軍の撤退を求めたが受け入れられず、結局両国の外交問題に発展、あわや開戦という瀬戸際まで追い込まれた。しかし、フランスの譲歩でマルシャンは撤退し、翌1899年スーダンはイギリスとエジプトの共同統治となり、フランスはチャド湖一帯を獲得した。この事件はヨーロッパ列強によるアフリカ分割の最後の頂点となった事件とされる。
﹇青木澄夫﹈
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ファショダ事件
ファショダじけん
Fashoda Incident
1898年アフリカ分割をめぐってイギリスの縦断政策とフランスの横断政策が衝突した事件。エジプト,スーダン地方をイギリスが統治下におこうとしたとき,フランスがアフリカ横断政策によってナイル川上流地域を占領してイギリスのケープ,カイロの生命線の切断を試み,98年7月ナイル河畔のファショダにフランス国旗が掲げられた。イギリスの H.キッチナーはフランス軍の撤退を求め,一時両国間に戦争の危機が生じたが,最後にフランスが譲歩した。99年3月21日英仏共同宣言が発せられ,ファショダはイギリスの,西スーダンはフランスの勢力下にそれぞれ入り,さらに 1904年英仏協商によってアフリカの勢力分野が決定された。
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ファショダ事件(ファショダじけん)
Fashoda
1898年スーダン南東部のファショダでイギリスとフランスが衝突した事件。当時スーダンはエジプト統治下にあったが,同年7月アフリカ横断政策を掲げるフランスのマルシャン大佐がファショダを占領した。これに対し,アフリカ縦断政策を推進するイギリスのキッチナー将軍が進軍し,9月19日フランス軍撤退を要求。外交交渉によって軍事衝突を回避し,11月フランスは撤退。翌年3月の協定で事件は解決し,以後スーダンはイギリスとエジプトの共同統治下に置かれた。
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ファショダ事件
ファショダじけん
Fashoda Incident
1898年,アフリカにおいてイギリスの縦断政策とフランスの横断政策が衝突した植民地分割事件
フランスのマルシャン大佐の一隊がアフリカ西海岸からスーダンのファショダに到着し,フランス国旗を掲げた直後,イギリスのキッチナー将軍がスーダン地方のマフディーの乱を鎮圧してこの地に到着,フランスの撤退を要求して情勢は緊迫し,問題は両国の外交交渉に委ねられた。両国の世論は高まったが,1899年フランス外相のデルカッセはイギリスに譲歩し,スーダンはイギリスの支配下に置かれ,縦断政策は成功した。この事件は英仏抗争の頂点であったが,これを機に両国の接近がみられ,1904年の英仏協商を迎えた。
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世界大百科事典(旧版)内のファショダ事件の言及
【アフリカ】より
…他方,イギリスは西部で新たにナイジェリア,東部でウガンダ,ケニアを保護領化したが,90年代末期にはカイロから南下してケープ植民地にいたる線を確保しようとし,98年にスーダンのファショダでフランスの勢力と衝突した。これが[ファショダ事件]である。また南部ではベルリン会議後,ベチュアナランド(現,ボツワナ),ニヤサランド(現,マラウィ)がイギリスによって保護領化され,さらにこの時代のイギリス帝国主義を代表する人物セシル・ローズの南アフリカ会社によって南・北ローデシア(南は現,ジンバブウェ,北はザンビア)もイギリスの支配下に組みこまれた。…
【マラカール】より
…アンヤ・ニヤなどの反政府運動が根強く,深刻な南北問題となっている。1889年のファショダ事件は北へ約30kmの今のコドクで起きた。主産物は砂糖,ラッカセイ,食肉などで,生産量は多くない。…
※「ファショダ事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」