出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…最も遅れて登場したイタリアは80年代末期にいたってソマリアの一部とエリトリアを手中におさめ,さらにエチオピアに触手をのばしたが,96年のアドワの戦でエチオピア軍に敗れ,野望を放棄した。ヨーロッパ列強によるアフリカ分割競争の終幕を告げたできごとは第2次ボーア戦争(1899‐1902)であった。この戦争でイギリスは,金やダイヤモンドを豊富に産出するボーア人の二つの国,オレンジ自由国とトランスバール共和国を併合し,その後の南アフリカ連邦(現,南アフリカ共和国)の原形をつくったのであった。…
…グラッドストンの引退後,ローズベリー伯(1894‐95首相),R.B.ホールデーン,E.グレー,H.H.アスキス(1908‐16首相)ら一部の自由党議員は,イギリス帝国の統合に強い関心を寄せるようになり,自由帝国主義者と呼ばれた。1899年のボーア戦争の勃発に際して,親ボーア的な党主流派に抗して戦争を肯定し,以後党内に一派閥を形成した。彼らの主張は,イギリス帝国の統合を帝国主義時代の最も重要な政治課題として認識し,その上に自由主義と自由党を再編成していくというもので,帝国官吏を養成するための国民教育,行政の合理化,国家による保健衛生の普及などを骨子とする〈国民効率〉の運動を推進した。…
…1905年テーラーの死後は同紙を買いとり,名実ともに支配者となった。ボーア戦争(1899‐1902)に反対した少数のひとりで,購読者の激減,暴徒の脅迫に屈せず,最後まで批判を続けたことは著名。1895‐1905年,自由党下院議員となる。…
…これに目をつけたイギリス植民地相カーナーボンは77年同国を併合した。ボーア人は一致して反対し,ロンドンに代表を派遣して独立の回復をはかったが拒絶され,80年武装蜂起し(第1次ボーア戦争),81年2月マジュバの戦でイギリス軍を破り,独立を回復した。86年同国のウィットウォーターズランドで金の大富鉱が発見されると,イギリスは直ちに同国の併合を企てた。…
…アフリカーンス語はオランダ語の一つの方言であり,本国から隔絶した間に変化したものである。入植初期の苦闘と,イギリスとのボーア戦争に敗北した苦い経験から,アフリカーナーは一種のナショナリズムを抱くにいたった。それはさらに〈神の真の僕(しもべ)はキリスト教徒である白人のみで,他の人種は白人に仕えるために存在する〉という選民意識につながり,アパルトヘイトという人種隔離政策を打ち出した。…
※「ボーア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...
6/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加
5/14 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新