デジタル大辞泉
「マルティーニ」の意味・読み・例文・類語
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マルティーニ
(一)[ 一 ] ( Simone Martini シモーネ━ ) イタリア、シエナ派の画家。ゴシック様式に優美で繊細な表現を加え、シエナ派の画風を確立。多くの壁画・祭壇画を描く。代表作﹁受胎告知﹂。︵一二八五頃‐一三四四︶
(二)[ 二 ] ( Giovanni Battista Martini ジョバンニ=バッティスタ━ ) イタリアの作曲家、音楽史家。音楽文献多数を収集して、三巻の﹁音楽史﹂を著わした。︵一七〇六‐八四︶
マルティーニ
- 〘 名詞 〙 ( [英語] martini )[ 異表記 ] マルチーニ・マティーニ・マテニ ジンまたはウオッカに少量のドライベルモットを混ぜたカクテル。
- [初出の実例]「其の混ぜものによってマテニ、〈略〉クロバーリーヴなど種んなのがある」(出典:紐育(1914)〈原田棟一郎〉夜のブロードウェー)
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マルティーニ
Simone Martini
生没年:1285ころ-1344
イタリアの画家。シエナ生れ。シエナ派の祖ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャに師事し,同派の最も重要な画家となった。師の流麗な線と華麗な色彩感をいっそう発展させ,純化された描線と洗練の極に達した色彩をその様式の特質とする。このような特質にもかかわらず彼の画面が現実とかけ離れた装飾性に堕することがなかったのは,主として次のような理由によると思われる。第1に人物が役割や場面に応じて微妙な心理的陰影に富む表情やポーズを示していること,第2に衣服の図柄や材質が克明に再現されていること,そして第3に遠近法が15世紀初頭の線的遠近法の確立以前にしてはきわめて的確に適用されていることである。
最初の重要な作品,シエナ市庁舎︵パラッツォ・プブリコ︶壁画の︽マエスタ︵荘厳の聖母︶︾︵1315。1321年に画家自身が修復︶は,ビザンティン風の図式的表現を離れてフランス・ゴシックの影響を感じさせる,生気の漂う作品である。1317年前後にはナポリのアンジュー公の宮廷にあり,その後再びシエナ市庁舎壁画︽グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像︾︵1328︶で,イタリア絵画史上初の広大な風景空間の描写を行った。33年には,彼の最も有名な作品︽受胎告知︾︵ウフィツィ美術館︶をシエナ大聖堂のために制作。この金地の祭壇画では,優美な装飾性と繊細な心理描写,敬虔な宗教性と精緻な写実性とがたぐいまれな融合を示している。39年アビニョンの教皇庁に招かれ,同地で没。同地での作品はわずかしか現存しないが,そこに見られる晩年の様式は,心理描写と強烈な色彩によってフランス美術に活気を与えた︵国際ゴシック様式︶。
執筆者‥鈴木 杜幾子
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マルティーニ(Simone Martini)
まるてぃーに
Simone Martini
(1284ころ―1344)
イタリアの画家。シエナ生まれ。シエナ派画家の代表的な存在であるが、修業期の経歴はほとんど不明である。しかしシエナ派の始祖ドゥッチョに師事したことは確実視され、14世紀前半にイタリア各地に伝播(でんぱ)したビザンティン様式を克服しながら、一方ではアルプス以北のゴシック様式を積極的に取り入れて独特の線描法、彩色法を駆使し、情緒にあふれる画風を確立した。1315年に制作した﹃マエスタ﹄︵シエナ市庁舎︶は彼の最初期の作品である。17年にはナポリ王ロベルト・ダンジューに招かれて﹃戴冠(たいかん)図﹄︵ナポリ、カーポディモンテ美術館︶を制作した。28年の制作時が銘記されている﹃グイドリッチオ・ダ・フォリアーノ将軍騎馬像﹄︵シエナ市庁舎︶は騎馬を主題とした現存絵画では最古の事例で、彼の写実的力量がよく示されている。アッシジのサン・フランチェスコ聖堂にある聖マルティヌス伝や聖女キアーラの肖像も彼の手になるものとみなされているが、33年に義弟リッポ・メンミLippo Memmiの協力を得て完成した祭壇画﹃受胎告知﹄︵ウフィツィ美術館︶は彼の画風が典型的に示された代表作である。39年までにアビニョンに赴き、シエナの画風と北ヨーロッパ・ゴシック様式の媒介者として活躍し、国際ゴシック様式の形成に重要な役割を果たし、同地で没した。
﹇濱谷勝也﹈
マルティーニ(Ferdinando Martini)
まるてぃーに
Ferdinando Martini
(1841―1928)
イタリアの劇作家、小説家、政治家。初めは軽妙な喜劇﹃男は申し込み女は待ち構える﹄︵1862︶など発表。ついで﹃ファンフッラ・デッラ・ドメーニカ﹄︵1879︶、﹃子供新聞﹄︵1880︶を創刊し、コッローディの﹃ピノッキオの冒険﹄を世に送り出した。小説﹃侯爵夫人﹄︵1877︶などを書く一方、左派自由主義の政治家として文部大臣、植民大臣など歴任。日記、回想記にも興味深いものがある。
﹇河島英昭﹈
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「マルティーニ」の意味・わかりやすい解説
マルティーニ
イタリアのシエナ派を代表する画家。シエナ生れ。従来のビザンティン様式を捨てて,北方ゴシック様式をとり入れ,ジョットの緊密な構成とドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの柔らかな色彩を総合して甘美で情緒のある宗教画を描いた。代表作にシエナ市庁舎の壁画︽マエスタ︵荘厳の聖母︶︾︵1315年︶,︽聖マルティヌス伝︾壁画連作︵1315年―1317年ころ︶などがあるが,最も名高いのはシエナ大聖堂のための祭壇画︽受胎告知︾︵1333年,フィレンツェ,ウフィツィ美術館蔵︶である。1340年から南仏アビニョンの教皇庁に赴いて仕事をし国際ゴシック様式の端緒を開いた。また,すぐれたミニアチュールも残している。
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マルティーニ
Martini, Simone
[没]1344.7. アビニョン
イタリア,シエナ派の代表的画家。初期の活動は不明であるが,同派の創始者ドゥッチオに学んだと思われ,ビザンチン美術の伝統にフランス・ゴシック様式を取入れ,流麗な描線と魅惑的な色彩を駆使して情緒的で物語性に富むシエナ派の画風を確立した。 1340年頃,教皇の詔命でフランスのアビニョンにおもむき,同地のゴシック的伝統にシエナ派の甘美な画風を交流させ,独特のアビニョン画派を形成,国際ゴシック様式の流行の端を開いた。同地では詩人ペトラルカと親交を結び,その画業を高く評価される一方,彼もウェルギリウス本扉絵 (ミラノ,アンブロジアーナ図書館) を残している。作品﹃マエスタ﹄ (1315,シエナ,パラッツォ・プブリコ) ,﹃ロベール・ダンジューの戴冠図﹄ (17,ナポリ国立美術館) ,﹃聖マルティーノ伝﹄ (アッシジ,サン・フランチェスコ聖堂) ,﹃グイドリッチオ・ダ・フォリアーノの騎馬像﹄ (28,シエナ,パラッツォ・プブリコ) ,﹃聖告﹄ (33,ウフィツィ美術館) 。
マルティーニ
Martini, Giovanni Battista
[没]1784.10.4. ボローニャ
イタリアの作曲家,音楽理論家。パドレ・マルティーニとも呼ばれた。 1725年にボローニャのフランチェスコ聖堂の楽長となり,かたわら音楽史,音楽理論を研究。 N.ヨメリ,J. C.バッハ,G.サルティらを教えた。音楽関係の収集図書は1万 7000巻をこえ,ウィーン王立図書館 (のちのオーストリア国立図書館) とボローニャ市に遺贈された。主著は未完の﹃音楽史﹄ Storia della musica (3巻,1757~81) ,﹃対位法譜例集﹄ Saggio di contrappunto (2巻,74~75) 。
マルティーニ
Martini, Fausto Maria
[没]1931. ローマ
イタリアの詩人,劇作家,劇評家,小説家。コラッツィーニと並び﹁たそがれ派﹂の一人に数えられる。コラッツィーニの夭折に際し,詩集﹃小さな死﹄ Le piccole morte (1906) や﹃片いなかの詩﹄ Poesie provinciali (10) を著わした。﹃トリブーナ﹄や﹃ジョルナーレ・デ・イタリア﹄誌に拠って劇評を発表。小説の代表作﹃ニューヨーク上陸﹄ Si sbarca a New York (30) 。
マルティーニ
Martini, Martino
[生]1614. トリエント
[没]1661.6.6. 杭州
イタリアのイエズス会士。中国名は衛匡国。明末の崇禎 16 (1643) 年に布教のため中国到着。動乱期の中国を巡回し,杭州に滞留。のち典礼問題をめぐる意見開陳のためローマ教皇庁におもむき,順治 16 (59) 年再び中国に来て没した。著書に『韃靼 (だったん) 戦記』 (54) ,『中国史初編』 (10巻,58) など,また漢文の著書に『天主理証』『霊性理証』などがある。
マルティーニ
Martini, Ferdinando
[没]1928. モンスンマーノ,バルディニエボレ
イタリアの政治家,劇作家,評論家,小説家。文相 (1892~93) ,植民地相 (1915~19) などを歴任し,かたわら文芸の振興に尽した。主著﹃侯爵夫人﹄ La marchesa (1877) ,﹃まむし﹄ La vipera (1906) 。
マルティーニ
Martini, Jean Paul Egide
[生]1741.9.1. フライシュタット
[没]1816.2.10. パリ
ドイツ生れのフランスの作曲家。 1760年ナンシーに移住,64年パリに行き軍楽とオペラの作曲で成功を収め,コンデ公やアルトア伯に仕えた。『愛の喜び』ほかのロマンスの作曲家として知られる。
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マルティーニ
Simone Martini(別名di Martino)
1284頃~1344
イタリア,シエナ派の代表的画家。同派の創始者ドゥッチオの影響を受けながらも,フランス・ゴシック様式を取り入れ,繊細優雅で情緒的な画風をより洗練させた。さらに世俗的性格も精妙に加味しながら,同画派の様式の伝播に多いに寄与した。アンジュー家の招きによりナポリにおもむいたのち,1340年頃から南仏アヴィニョンの教皇庁に招聘されて,同地で没。アヴィニョンを含む彼の活動は,当時の文化的中心地を結ぶパン・ヨーロッパ的な国際ゴシック様式の基礎を築いた。代表作は﹁マイエスタ(荘厳の聖母)﹂﹁受胎告知﹂など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のマルティーニの言及
【国際ゴシック様式】より
… 国際的交流は,1320年代すでに[ジョット]にはじまるイタリア絵画の革新の影響として,空間の存在を暗示する立体感や遠近感表現の画面への導入や,感情表現に示される人間解釈の深化がアルプス以北の作品に散見されることから立証されているが,14世紀中葉,教皇の都アビニョンと皇帝の都プラハでの造営事業を通じて本格化する。アビニョンに集まった工人の出身地は多彩であるが,[S.マルティーニ],ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)など[シエナ派]の画家が招かれ教皇庁壁画,祭壇画,写本挿絵制作などに活躍し,アビニョンを中継地としてシエナ派の影響が国際的に波及した。プラハでもカール4世が,地元のみならずフランス,ドイツ,イタリアから工人を招き,大聖堂やカールシュタイン城を造営した。…
【ゴシック美術】より
…ジョットはアッシジ,パドバ,フィレンツェ(サンタ・クローチェ教会)の壁画において,このような現実感のこもった劇的な宗教芸術を実現したのであった。フィレンツェのジョットとその門人たちの活動に対し,ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ,マルティーニおよびロレンツェッティ兄弟らの[シエナ派]の活動もめざましかった。ドゥッチョらはビザンティン絵画の伝統をおしすすめ,精巧な技巧をもって,現実感に裏づけられた中世宗教画の美を発揮する。…
【シエナ派】より
…13世紀にはすでにグイード・ダ・シエナGuido da Sienaのような画家が現れるが,真にこの派の基礎を確立したのは,ジョットと同時代の[ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ]が登場してからである。彼は東方のビザンティン美術と北方のゴシック美術を摂取・融合して,繊細な形態を線のリズムが包む甘美で抒情的な画風をつくり上げ,さらに弟子のシモーネ・[マルティーニ]が,よりソフトで優雅な装飾性の濃い絵画へと発展させた。この時期のシエナ派絵画は,フィレンツェ派と並んで,イタリア各地に強い影響を及ぼした。…
※「マルティーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」