日本歴史地名大系 「仙北郡」の解説
仙北郡
せんぼくぐん
面積:二〇二二・六七平方キロ
東は奥羽山脈で岩手県、北は鹿かづ角の市・北秋田郡、西は出羽山地で河辺郡・由利郡、南は平ひら鹿か郡・横手市に接し、郡南の一角に大おお曲まがり市がある。北の八はち幡まん平たいなど奥羽山脈からの諸流を集めて南流する玉たま川は、平行する檜ひの木きな内い川を角館町で合わせ、北流する雄物川に大曲市で合流する。両川の流域に北の角館町から南の湯沢市まで南北約六〇キロ、東西の最大幅約一五キロの横手盆地が広がる。
現仙北郡の地は現大曲市域を含め古代から近世初期まで山本郡といった。また雄おが勝ち・平鹿・山本三郡は山せん北ぼく︵仙北︶三郡と総称された。戦国時代には仙北三郡は北きた浦うら︵現仙北郡︶、上かみ浦うら︵現平鹿郡・雄勝郡︶と称され、さらに仙北中郡の称もみえる。寛文四年︵一六六四︶幕府の命による郡の整理で仙北郡と改めたが、北浦の通称は残り、前まえ北きた浦うら・奥おく北きた浦うらなどともよばれた。
〔原始・古代〕
遺跡の分布は奥羽山脈西麓台地・出羽山地山麓・雄物川各支流河岸段丘上・諸河川による扇状地に濃密である。協和町地内の河岸段丘上から石刃やノッチドスクレーパーが採集されている。縄文時代の遺物は各地から出土するが、中仙町長なが野のののごく極ら楽く野の遺跡では、前期から後期にかけての土器が出土し、六郷町六郷の石いし名なだ館て遺跡は縄文晩期といわれる。千畑村千せん屋やののうん雲じよ穣う野の遺跡、西木村西さい明みよ寺うじののそ袖で野の遺跡、神岡町神じん宮ぐう寺じののささ笹く倉ら遺跡からは土器・石器のほか数基あるいは十数基の組石遺構が発見された。弥生時代の遺跡は発見例が少ないが、協和町峰みね吉よし川かわののな中かざ沢わ遺跡から天王山式土器と思われるものや、アメリカ型石鏃、石槍が採集されている。
延暦二二年︵八〇三︶現岩手県盛岡市付近に志し波わ城が築かれた。ほぼ同緯度に払ほつ田たの柵さく︵現仙北町払田・千畑村本堂城回︶があり、歴史上の記録はないが、嘉祥二年︵八四九︶銘の木簡が出土し、志波城とともに北方の重要基地、また開発の拠点となったことがうかがわれる。
山本郡の郡名は﹁三代実録﹂貞観一二年︵八七〇︶一二月八日条の﹁出羽国山本郡安隆寺預
之定額
﹂が初見だが、建郡時期は不明。官寺に準じ国家鎮護を祈る定額寺の安あん隆りゆう寺が置かれたことは開発の度合いを現している。まもなく元慶の乱が起こるが、朝廷は元慶四年︵八八〇︶雄勝・平鹿・山本三郡の一年間の調庸を免じ、不動穀六千二〇九石余を三郡の狄俘八〇三人に給し、厚遇慰撫し、﹁昔時叛夷之種、与
民雑居﹂とみえ、移住民と現地人とが混住しながら、開拓を進めたことがわかる︵三代実録︶。
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報