日本歴史地名大系 「城陽市」の解説 城陽市じようようし 面積:三二・三一平方キロ 京都府の南部に位置し、北は宇治市と久世郡久(くみ)御(や)山(ま)町、西は木(き)津(づ)川を挟んで八(やわ)幡(た)市と綴喜郡田(たな)辺(べ)町、東は同郡宇(うじ)治(た)田(わ)原(ら)町、南は同郡井(い)手(で)町に接する。東部は鴻(こう)ノ巣(す)山を頂点とする宇治丘陵の洪積層、西部は木津川の沖積層で、両者の境界に発達した湧水線に沿って、古代から集落が発達した。 行政的には久世郡南部と綴喜郡中央北部が合併して成立した市であるが、両郡の郡界は木津川の流路が一定しなかったため、しばしば変更を余儀なくされている。 〔原始・古代〕 市域で発見された最古の遺跡は、ほぼ中央部やや南寄りの丘陵上にある縄文時代後期から晩期にかけての森(もり)山(やま)遺跡で、これに寺(てら)田(だ)集落の北東平地より出土した弥生時代後期の塚(つか)本(もと)遺跡が続く。 古墳時代に入ると、市域中央部北の山際一帯に久(くつ)津(か)川(わ)古墳群と総称される多くの古墳が築かれている。すなわち前期の梅(うめ)子(のこ)塚(づか)古墳群・西(にし)山(やま)古墳群・尼(あま)塚(つか)古墳群・上(かみ)大(おお)谷(たに)古墳、中期の下大谷古墳群・平(ひら)川(かわ)古墳群・宮(みや)の平(ひら)古墳群・芝(しば)ヶ原(はら)古墳群、後期の冑(かぶ)山(とやま)古墳群・長(なが)池(いけ)古墳などで、なかでも平川古墳群には全長一五六メートルの久津川車(くる)塚(まづか)古墳をはじめ、芭(ばし)蕉(よう)塚・梶(かじ)塚・青(あお)塚・丸(まる)塚・箱(はこ)塚など一一基の古墳が含まれる。 ﹁日本書紀﹂に二度の記載がみえる栗(くり)隈(くま)大(のお)溝(おうなで)は、現在の古(ふる)川に比定される灌漑用水路であるが、大化改新以前、市域の北部から現久世郡久御山町・宇治市の南部にかけては、栗隈県主を称した一族を中心に、高度な文化地帯であったことが考えられる。久(くせ)世(し)芝(ば)ヶ原(はら)や寺田正(しよ)道(うどう)には集落遺跡がある。ことに正道遺跡は久世郡の郡衙跡といわれ、古代における中心地であったと思われる。 郡衙跡の周辺部には、奈良時代前期から平安時代にかけての寺院跡とされる平川廃寺・久世廃寺などがあった。九世紀初頭の﹁新撰姓氏録﹂には水主直・中村連・粟首などの名がみえるが、城陽市域の地名を負った氏族と考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「城陽市」の意味・わかりやすい解説 城陽〔市〕じょうよう 京都府南部,木津川東岸にある市。 1972年市制。西部は沖積平野,東部は低い丘陵地帯をなす。米作,野菜栽培のほか,ナシ,モモなどの果樹や茶の栽培が行われる。ほかに西陣織に使われる金銀糸を産する。農業中心であったが,1960年代からは中小工場の進出や住宅団地の建設など,都市化,人口増加が著しい。重要文化財の本殿のある水渡 (みと) 神社,平川廃寺跡,森山遺跡,芝ヶ原古墳,久津川車塚・丸塚古墳,正道官衙 (しょうどうかんが) 遺跡などの史跡や青谷梅林がある。JR奈良線,近畿日本鉄道奈良線,国道24号線,307号線が通じる。面積 32.71km2。人口7万4607︵2020︶。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報