デジタル大辞泉 「大関」の意味・読み・例文・類語 おお‐ぜき〔おほ‐〕【大関】 1相撲で、横綱に次ぐ地位。近世では力士の最高位で、そのうち選ばれた者に横綱の称号が与えられた。三役の最高位。 2 同類の中で最もすぐれているもの。﹁東の大関は草津温泉、西の大関は有馬温泉﹂ 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「大関」の意味・読み・例文・類語 おお‐ぜきおほ‥【大関】 (一)〘 名詞 〙 (二)① 近世、力士の階級で最上位のもの。三役の最高位。明治に入り、横綱の階級を新たに設けるようになってからは、横綱に次ぐ上位力士となる。せき。ほて。 (一)[初出の実例]﹁すでに相撲も五日めになりて、大関をとらすと触ければ、見物一入いやまし﹂(出典‥浮世草子・太平百物語︵1732︶七) (三)② 同類中、もっとも傑出しているもの。現在では﹁横綱﹂ということが多い。 (一)[初出の実例]﹁何でも御両人(おふたり)ながら娘評判記とやらが出来ますと、西と東の大関(オホゼキ)でございますヨ﹂(出典‥人情本・梅之春︵1838‐39︶四) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本大百科全書(ニッポニカ) 「大関」の意味・わかりやすい解説 大関おおぜき 相撲(すもう)用語。室町時代、相撲で相手を倒し、勝ち抜いた者を﹁関を取る﹂といった。関は関所、関門のことで、関を取って守ることは強者を意味し、﹁関﹂とも﹁関取﹂とも尊称するようになった。江戸中期、プロ相撲の隆盛をみるようになり、元禄(げんろく)年間︵1688~1704︶に、力士の強弱順位を示す番付が編成され、関の上に大の字を冠して、最高位に大関を置くようになり、関取は上位力士の総称となった。江戸時代から明治時代初期まで、最高位は大関で、横綱という文字が相撲番付に記載されるようになったのは、1890年︵明治23︶5月場所からである。 ﹇池田雅雄﹈ [参照項目] | 横綱 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
知恵蔵 「大関」の解説 大関 力士の中で、最強の者を﹁関﹂と呼んでいたが、1699年の京都相撲の番付に、大関という地位が登場。現在は関脇で3場所連続して好成績を残した力士が昇進する例が多い。2場所連続して負け越すと関脇に降下するが、翌場所10勝すれば復帰できる特権がある。2004年九州場所で大関から降下した栃東は05年初場所で11勝4敗の成績を残し、大関復帰を決めた。この制度になった1969年名古屋場所以降ではこの特権を生かしたのは三重ノ海(現武蔵川親方)、貴ノ浪(現音羽山親方)と武双山(現藤島親方)に続き4人5例目。 (根岸敦生 朝日新聞記者 / 2007年) 出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「大関」の解説 おおぜき【大関】 兵庫の日本酒。酒名は、明治17年(1884)当時の相撲の最高位﹁大関﹂にちなみ命名。﹁ワンカップ﹂はカップ酒の先駆けで、昭和39年(1964)以来のロングセラー商品。大吟醸酒から普通酒までをラインナップ。全国新酒鑑評会で受賞実績多数。原料米は山田錦など。蔵元の﹁大関﹂は正徳元年(1711)創業。西宮﹁寿蔵﹂﹁恒和蔵﹂、丹波篠山﹁丹波蔵﹂の3酒造場を運営。所在地は西宮市今津出在家町。 出典 講談社[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションについて 情報
日本の企業がわかる事典2014-2015 「大関」の解説 大関 正式社名﹁大関株式会社﹂。英文社名﹁OZEKI co., ltd.﹂。食料品製造業。正徳元年(1711)創業。昭和10年(1935)﹁株式会社長部文治郎商店﹂設立。同37年(1962)﹁大関酒造株式会社﹂に改称。平成3年(1991)現在の社名に変更。本社は兵庫県西宮市今津出在家町。酒造会社。清酒﹁ワンカップ大関﹂﹁辛丹波﹂﹁多聞﹂などを製造。発酵技術を基盤に化成品開発も手がける。 出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大関」の意味・わかりやすい解説 大関おおぜき 力士の階級の首位。 1909年に横綱が最高位と明文化されるまで,番付最上位とされた。2場所連続の負け越しで関脇に降下する。大関経験力士は引退後,現役名で3年間日本相撲協会に残ることができる。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の大関の言及 【横綱】より …現在は相撲番付の最高地位,また,その力士をさす。横綱に関する古文書は少なく,1773年(安永2)に行司式守五太夫の書いた伝書によると,その起源は,城や屋敷を建てるときの地鎮祭に大関2人を招き,おはらいの地踏みを行ったが,その儀式免許を京都五条家が︿横綱之伝﹀を許すといったことから始まったとされる。これを職業相撲の興行の土俵に移したのが吉田司︵よしだつかさ︶家で,89年(寛政1)11月場所中に,初めて谷風梶之助,小野川喜三郎の両関脇(実力大関)に,︿横綱﹀というしめ縄を腰にまとって土俵入りする免許を与えた。… ※「大関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」