日本歴史地名大系 「小路村」の解説
小路村
こうじむら
小路村
しようじむら
小路村
しようじむら
[現在地名]桃山町元 小路
最さい初しよ峰︵二八五・二メートル︶の西山麓に位置する小村で、西は市いち場ば村、東は高たか野の村︵現打田町︶、南は賀か和わ村に接する。村域内に弥生時代の土器破片が出土した元遺跡があり、また条里制の遺構も検出されている。当村と賀和村を併せた地は中世には荒あら川かわ庄上こう村ともよばれ、神こう田だ村とともに高野山領荒川庄の中心をなした地であったと思われる。近世も高野山領で、﹁続風土記﹂に村高三一四石余、家数八四、人数二三一とある。当村は南北朝時代の兵火をはじめ、度々の火災で寺社を焼失、元禄六年︵一六九三︶一二月にも大火のあったことが功徳聚院書状案︵又続宝簡集︶からも知られ、俗謡に﹁花や火元で小路大焼け神田田中で火をとめた﹂とうたわれた。
小路村
こうじむら
- 石川県:珠洲市
- 小路村
[現在地名]珠洲市正院町小路
正院村の北にあり、垣内に丸まる山やまがある。正保郷帳に村名がみえ、高五〇五石余、田二六町七反余・畑七町、新開高二九石余︵免三ツ九歩二厘︶。寛文一〇年︵一六七〇︶の村御印の草高五七〇石、免六ツ、新開高七石余、小物成は山役二二六匁、鳥役一匁︵出来︶・外海船櫂役四二匁︵退転︶、なお敷借本米・利足は一五石であった︵三箇国高物成帳︶。元治元年︵一八六四︶の奥郡酒造人々留帳︵三百苅文書︶に造高六〇石の四兵衛がみえる。真宗大谷派の高こう福ふく寺は貞観四年︵八六二︶円仁の弟子という円玄が松まつ波なみ︵現内浦町︶に創立したのを創始とし、宝徳三年︵一四五一︶玄恵の帰依により改宗、のち松波松しよ岡うこう寺の僧が高福寺を号し、寛文八年当地に移ったという。
小路村
しようじむら
小路村
しようじむら
小路村
しようじむら
小路村
しようじむら
小路村
しようじむら
小路村
しようじむら
[現在地名]甚目寺町小路
東の石いし作つくり村とほとんど一村のように連なる村。﹁徇行記﹂によれば、概高二四七石余は加藤多宮の給所。田は一〇町九反四畝余、畑は八町二反二畝余。﹁寛文覚書﹂に戸数二一、人数一三三とある。﹁徇行記﹂は﹁耕田不足ナル故ニ土田村・森村ノ田畝ヲ承田ス、小百姓ハカリニテ高持ノモノ大体平均セリ︵中略︶膏腴ノ地ニテ作物何レモヨシ、大蘆
・茄子ノ類ヲ下小田井市ヘ売出ス、田面ハ一体地高ナレトモ古道村界ヘ付、二ツ寺渠
ニテ水潦ヲサヽヘ潴ノ害アリ、是ハ先年久淵ト水論アリテ、漸々畠ニ墾シ水落アシクナレリ、宝暦九卯年裁許書アル由﹂と記し、新に居い屋や村の支邑久くぶ淵ちとの水論を伝える。
![](/image/dictionary/histchimei/gaiji/4E3E.gif)
![](/image/dictionary/histchimei/gaiji/3D4D.gif)
小路村
しようじむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報