日本歴史地名大系 「岩瀬郡」の解説
岩瀬郡
いわせぐん
面積:三八一・三九平方キロ
県中通りの南部に位置し、北は郡山市、東は須賀川市・石川郡玉たま川かわ村、南は西白河郡矢やぶ吹き町・大たい信しん村・西にし郷ごう村、西は南会津郡下しも郷ごう町・会津若松市。西部は奥羽山脈の鎌かま房ぶさ山・小こし白ろも森り山・二ふた岐また山・八はち幡まん岳・笠かさヶ森もり山など一〇〇〇メートル以上の高山とその東縁の高地・丘陵で、これら山間を釈しや迦かど堂う川・江えば花な川・滑なめ川などが東流し、流域の東部・南東部に突出している鏡石町に平地が開ける。JR東北本線が鏡石町を縦貫し鏡石駅がある。ほぼこれに併走して同町を国道四号と東北自動車道が抜ける。そのほかは主要地方道網により結ばれている。
郡名の初見は﹁続日本紀﹂養老二年︵七一八︶五月二日条の﹁石背﹂で、同書神護景雲三年︵七六九︶三月一〇日条では﹁磐瀬﹂、﹁三代実録﹂貞観三年︵八六一︶一〇月一六日条には﹁石瀬﹂とあり、保延四年︵一一三八︶一〇月二六日の陸奥国司庁宣案︵上遠野文書︶には﹁岩瀬郡﹂とある。以降中世まで磐瀬・岩瀬などが混用されたが、近世以降はほぼ岩瀬が用いられた。なお以下の記述は、近世までの郡域を対象とする。
〔原始・古代〕
旧石器時代の遺跡には鏡石町成なり田たの成田遺跡、須賀川市の乙おつ字じヶ滝たき遺跡がある。縄文時代の遺跡は奥羽山脈の東麓斜面・阿武隈高地西斜面に分布。長沼町小こな中かの宮みやノ前まえと滝たきののみ明よう神じん前まえ、天栄村大おお里さとの深ふか沢さわ、岩瀬村守もり屋やの向むか原いはらなどの遺跡がある。弥生時代の遺跡には阿武隈高地西斜面の須賀川市小おぐ倉らののぼた牡んだ丹い平ら、釈迦堂川流域の鏡石町久きゆ来うら石いし古ふる萱かや山まA・笠かさ石いし笹ささ池いけ上がみ、江花川流域の長沼町桙ほこ衝つき門かど無なし、釈迦堂川流域の天栄村大里坂さか口ぐちなどの遺跡がある。古墳は後期の群集墳が江花川・釈迦堂川・滑川流域、阿武隈川西岸などに広く分布する。阿武隈川流域の須賀川市域に蝦えぞ夷あ穴な・塚つか畑ばたけ両古墳、神かん成なり横穴群・早わ稲せ田だ古墳群・大だい仏ぶつ古墳群がある。滑川流域の岩瀬村に跡あと見みづ塚か古墳群、江花川両岸段丘上に長沼町の才さい合ごう地ちや山ま横穴古墳群・洞ほら山やま横穴古墳群、釈迦堂川流域の天栄村には全長四八・五メートルの前方後円墳の竜りゆうヶ塚づか古墳がある。
前掲の﹁続日本紀﹂養老二年五月二日条には﹁割白河・石背・会津・安積・信夫五郡、置石背国﹂とみえ、陸奥国に属していた石背郡はこのとき新設された石背国に属したが、まもなく同国廃止により陸奥国に属した。﹁続日本後紀﹂嘉祥元年︵八四八︶二月二二日条に﹁陸奥国磐瀬郡権大領外従七位上丈部宗成﹂とあり、丈部氏が郡権大領であった。﹁和名抄﹂東急本は磐瀬郡に磐瀬・椎しい倉くら・広ひろ門と・山やま田だ・余あま戸るべ・白しら方かた・駅うま家やの七郷がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報