川本幸民(読み)カワモトコウミン

デジタル大辞泉 「川本幸民」の意味・読み・例文・類語

かわもと‐こうみん〔かはもとカウミン〕【川本幸民】

 
18101871()()調  

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精選版 日本国語大辞典 「川本幸民」の意味・読み・例文・類語

かわもと‐こうみん【川本幸民】

 

(一)調
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川本幸民」の意味・わかりやすい解説

川本幸民
かわもとこうみん
(1810―1871)


()()182912()1830()1833418351836()()18411851418563()1518271856()稿()()1856調()185918601()1861稿1868()1870462



19641971

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朝日日本歴史人物事典 「川本幸民」の解説

川本幸民

 
4.6.1(1871.7.18)
7(1810)
(),,9,,12(1829),,,6(1835),,3,6,,,,,,,西46調,,()(1851),西(1854),(稿,1856),(稿,1860)<参考文献>  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

化学辞典 第2版 「川本幸民」の解説

川本幸民
カワモト コウミン
Kawamoto, Komin

幕末期の蘭学者で日本の物理学,化学の基礎を築いた博学者.文化7年生まれ(月日不明),明治4年6月1日没.摂津国三田藩(兵庫県三田市)の藩医川本周安の末子.号は裕軒.藩校の造士館で漢学を学んだ後,19歳で江戸に出て蘭医の足立長雋,坪井信道のもとで蘭学・蘭医を習得し,1835年江戸で医を開業,青地林宗の三女と結婚.同年刃傷事件に連座し7年間のちっ居生活後,西洋科学技術の優位性を再認識し,それらの蘭書を翻訳し,物理学,化学の導入を推進した.幕末期には幕府の蕃書調所の教授として化学教育の中心的存在であった.訳書「気海観瀾広義」(1851~1856年)で物性,運動,光,電気などを概説し,日本の物理学成立に貢献した.「遠西奇器述」(1854年)で写真,電気めっき術などの技術を解説した.1856年「兵家須読舎密真源」,1860年には中国起源の“化学”をはじめて書名に採用した「化学新書」で原子論,化学の基本法則などを紹介し,より近代的化学内容を導入した.化学薬品の製造,マッチ,ビール,銀板写真などの試作も行っている.

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改訂新版 世界大百科事典 「川本幸民」の意味・わかりやすい解説

川本幸民 (かわもとこうみん)
生没年:1810-71(文化7-明治4)

幕末の蘭者。摂津三田藩医川本周安の三男。名は裕,字は幸民,号は裕軒。1829年(文政12)江戸に出て坪井信道らに蘭学を学ぶ。34年(天保5)藩医,翌年江戸で開業。56年(安政3)幕府の蕃書調所教授手伝,59年教授,62年(文久2)幕臣に列し,明治維新で辞官した。《気海観瀾広義》《遠西奇器述》《化学新書》等を著し,マッチ,ビール,銀板写真を試作するなど,西洋理化学の研究・紹介に尽くした。妻秀子は青地林宗の三女。
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百科事典マイペディア 「川本幸民」の意味・わかりやすい解説

川本幸民【かわもとこうみん】

蘭学者。名は裕(ゆたか),号は裕軒(ゆうけん)。摂津(せっつ)三田(さんだ)藩医川本周安の子。江戸に出て足立長雋(ちょうしゅん),坪井信道らに蘭学を学び,1856年蕃書調所教授手伝,1859年同教授職。岳父青地林宗の《気海観瀾(きかいかんらん)》をわかりやすくし増補した《気海観瀾広義》(1851年)を書き,日本の物理学の発展に貢献。ほかに種々の機械を解説した《遠西奇器述(えんせいききじゅつ)》(第1集1854年,第2集1859年)ほか多くの科学の著訳書がある。マッチ,ビール,銀板写真なども試作している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川本幸民」の意味・わかりやすい解説

川本幸民
かわもとこうみん

 
[]7(1810).
[]4(1871).6.1. 
 ()  12 (1829) 6 () 5 (34) 6 (59) 調退西  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川本幸民」の解説

川本幸民 かわもと-こうみん

1810-1871 江戸時代後期の蘭学者。
文化7年生まれ。足立長雋(ちょうしゅん)に蘭方医学を,坪井信道に蘭学をまなぶ。天保(てんぽう)5年(1834)郷里の摂津三田(さんだ)藩(兵庫県)藩医となり,翌年江戸で開業。理化学に通じ,「気海観瀾広義」を翻訳・刊行し,天文・熱学・光学・電気・化学などを紹介・解説。安政6年蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授に任じられた。明治4年6月1日死去。62歳。名は裕。通称は周民。号は裕軒。

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世界大百科事典(旧版)内の川本幸民の言及

【化学】より

…化学の体系的な紹介は宇田川榕菴による《舎密開宗》(これはラボアジエの体系に基づく)の刊行(1837‐46)である。化学の系統的な教育は50年代の後半,蕃書調所において川本幸民を教授として始められた。このころから舎密は化学と呼ばれるようになった。…

【気海観瀾】より


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【蕃書調所】より

…そこでこれに対処するため洋学校の設立を図り,55年(安政2)に古賀増を洋学所頭取に任命し,翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称,九段坂下の旗本屋敷を改修して校舎にあて,同年7月に開所,翌57年1月から開講した。教官の陣容は教授職2名で,箕作阮甫(みつくりげんぽ)(津山藩医)と杉田成卿が任命され,教授手伝に川本幸民(三田藩医),高畠五郎(徳島藩医),松木弘安(薩摩藩医)ら6名,ほかに句読教授3名が任命されたが,その後逐次補充増員されて幕末に及んだ。教官ははじめ陪臣が大部分であったから,彼らはいつ主家から呼び戻されるかわからず,そこで幕府は主要な洋学者を直参に登用することにし,62年(文久2)に箕作阮甫と川本幸民を直参に取り立てたのをはじめ次々と直参に登用している。…

【ビール】より


【ビールと日本人との出会い】
 日本人とビールの出会いとして記録に残っている最初のものは,1724年(享保9)の《和蘭問答》で〈麦酒たべみ候処,殊の他悪敷物にて……,名をびいると申候〉とある。幕末の蘭医川本幸民(1810‐71)は訳書《化学新書》の中でビールの製法を正確に記載しており,同人が日本で初めてビールを試醸したと伝えられるが確かではない。福沢諭吉は1865年(慶応1)《西洋衣食住》の中で〈又ビイルという酒あり,是は麦酒にて,其味至って苦けれど胸襟を開くに妙なり〉と述べている。…

※「川本幸民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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