デジタル大辞泉 「慧可」の意味・読み・例文・類語 えか〔ヱカ〕【慧可】 ﹇487~593﹈中国、南北朝時代の禅僧。初祖の菩(ぼだ)提(いだ)達(る)磨(ま)に師事。禅宗の第二祖とされる。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「慧可」の意味・読み・例文・類語 えかヱカ【慧可】 (一)中国南北朝時代の僧。禅宗の第二祖。諡(おくりな)は大祖禅師。河南虎牢(ころう)の人といわれる。インドから渡来した達磨に師事。説法中迫害にあい、一〇七歳で処刑されたといわれる。僧可。︵四八七‐五九三︶→慧可断臂(えかだんぴ) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
改訂新版 世界大百科事典 「慧可」の意味・わかりやすい解説 慧可 (えか)Huì kě生没年:487-593 中国,北魏より隋代の禅僧。僧可ともいう。のちに中国禅宗の二祖として,大祖禅師の諡号︵しごう︶をうける。洛陽虎牢の人,姓は姫,はじめ神光と名のり,老荘と伝統仏教を習うが,インドより来た菩提達磨の禅をうけ,洛陽と河北の地方で,新仏教を広める。のちに二祖調心とよばれて,一般市民とともに,苦行労働に従ったこと,とくに最後に対立者側の告訴で非業の死をとげるなど,生没年その他,伝説的な傾向が強い。嵩山︵すうざん︶少林寺で,達磨について入門をもとめ,一夕雪の中に立ちつづけ,臂︵ひ︶を断って決意を示した話や,達磨に安心の法を問うと,達磨が不安の心をみせよと答えたことで,慧可が一挙に頓悟した話,達磨がインドに帰るのに際し,他の3人の弟子たちとともに,その心境を問われたのに答えて,慧可が黙って礼拝したとき,汝はわが髄を得たと許されたとするなど,いずれも後に展開する禅思想の起源となる。近年,敦煌で発見された語録の一部は,従来︿安心法門﹀の名で知られる達磨語録とともに,その歴史的由来を示す。 執筆者‥柳田 聖山 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ) 「慧可」の意味・わかりやすい解説 慧可えか(487―593) 中国、南北朝時代の僧。史実は不詳であるが、禅宗内に伝承があり、禅宗の第二祖とされる。諡号(しごう)は大祖禅師。俗姓は姫(き)氏、幼名は神光。洛陽(らくよう)の人。幼いころは外典(げてん)を学び、のちに仏典をみて、竜門の香山宝静(こうざんほうじょう)の下で出家。ついでインド僧の達磨(だるま)のことを知って尋ねたが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、臂(ひじ)を断ち切って誠意を示し、許されて弟子となったといわれ、これはのち﹁慧可断臂(だんぴ)﹂の画題となった。また安心(あんじん)問答により証悟(しょうご)して、達磨の法を嗣(つ)いで、鄴都(ぎょうと)︵河南省︶で説法したという。﹃楞伽経(りょうがきょう)﹄の研究講説者の一人。開皇(かいこう)13年3月16日示寂と伝える。 ﹇石井修道 2017年1月19日﹈ [参照項目] | 達磨 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「慧可」の意味・わかりやすい解説 慧可えかHui-ke [生]太和11(487)[没]開皇13(593)中国,南北朝~隋の禅宗の第2祖。菩提達磨につき,入門のとき左腕を切って求道の志を認められたという伝説 (慧可断臂) で有名。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報